はにわを見に行く
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窯焚きの合間に今週末で終わりになるはにわ展を見に県立歴史博物館へ行ってきた
美術館と併設されている
なかなか見ごたえのある展示だった
常設展にもかなりの数のはにわがあるのでたっぷり楽しませてもらった
それにしても、足が疲れた!
同時開催の月岡芳年の怪奇絵はパス
最初は美術館も見ようと思ったが、とてもじゃないがムリ!
これはまづい
運動不足が露呈された
ひと月に一度くらいは美術館博物館めぐりをしようと決意(つづくかな?)
あとで知ったのだがシニアパスポートを持っていると割引になる
(新里支所へもらいに行こう、と強く思う五郎であった)
∴今日の述懐 不連続曲線は二つとして同じものはない 直線や同心円は原理的に相似形を作り出すことが可能だが、曲線は無理だ そこで人類は鋳型を発明した やきもので言えば、その前にコテが生まれた コテを使えば器の内側はほぼ相似形に近いものが作れる 動力ロクロに至っては内側はコテで、外側は石膏型で限定するのでほぼほぼ同じものが生み出せる そして、鋳型によって完璧な同一性を手に入れた 何度でも同じものを手に入れるということで、何か別なものを失った そう、曲線の音楽が鳴らなくなったのだ |
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しばし作りの時
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焼く茶碗がなくなったのでしばらく作りに専念
時間が許せば、ある土で作ったらその一種類だけで焼いて、また次の土合わせや釉調合を考え、また作って・・・
それを繰り返したいのだが・・・
でも、時間制限はあるから一応の終わりがある
どこかの劇団が公演日は決めず、作品が仕上がるまで稽古すると言っていたが、おそらく永遠に仕上がらないだろう
仕切りというのは活動を制約するが、同時に時々の完成も促してくれる
そして、誰もが最期の最期につくづく
ars longa vita brevis
と思うのだろう
手前のメガネは10年以上前、瀬戸で工房用に作ったものだ
当然度は合っていないし
その上鼻当ては片方取れているし
でも、これがないと調子が出ない大事なメガネだ
今日の窯出し
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前回は長徐冷だったが、今回はほぼ急冷の窯
こっちの方が貫入は細かい気がするのだが、これはまだ渋入れして確認していないので何とも言えない・・・
∴今日の述懐 『正法眼蔵』は原文で読むのが一番なのだが、いかんせん独特な漢語の多用で分かりにくいことこの上ない そう感じていたので以前河出書房(石井訳)と講談社(増谷訳)の現代語訳を何冊か買っておいた 二冊を「現成公案」の巻で比べてみた 石井訳は実に親切に見えるが見方を変えると自分の解釈を強要している 増谷訳は訳者の解釈を交えず字義通り書き下した感が強い 結論から言うと両方とも読み解く助けにはならない 一番助けになったのは西有穆山「正法眼蔵啓迪」と岸沢惟安「正法眼蔵全講」だった もちろん提唱なので筆者の見解が中心となる だが、石井訳と根本的に異なるのは哲学としてではなく仏の教えとして語っている点だ 4冊の本を読み比べてつくづく思ったのは行住坐臥の働きとしてのことばとシニフィエとしてのことばの差異だ |
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井戸の新作
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新作井戸茶碗
ピンクカオリンと美濃の赤土
井戸盃で試験を重ねてきたが茶碗となるとまったく勝手が違う
自分の理想とするカーブが描けない
目が悪いのか、手が悪いのか?いや、もっと奥の方に問題があるのか?
また、描けたと思っても焼いてみると違ってしまいがっかりする
井戸は深い
∴今日の述懐 無門関に徳山托鉢という公案がある 徳山が時間前に食堂へ来たのを弟子の雪峰が「合図も鳴らないのにどこへ行くつもりか」と咎めると、徳山は無言で自室に帰る 雪峰は師である徳山は大事なところが分っていないと巌頭に話す 公案の意は徳山が一番弟子の巌頭と組んで雪峰を悟らせようとする点にある 出来レースのようなものなのだが、これが難しい 問題は徳山の無言の帰室だ 彼は以前、餅売りの老婆にこっぴどくやられている 道元はやりこめられて無言のままの徳山のみならず、やりこめたまま無言だった老婆も仏心を会得していないと難じている 岸沢惟安が『正法眼蔵』の「行仏威儀の巻」に参じてちからを得なければ真の解脱の人ではないと言うこころが少しだけ分ってきた 譜面通りに弾いたところで音楽になるわけではないし、井戸茶碗らしきものをろくろで弾いたところで井戸茶碗が出来るわけではないのだ |
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