もっとニコニコできないものか

気になることがある。
それはロクロを挽いている時のことだ。気がつくと眉間にシワが寄っている。真剣になるとシワが寄るクセがある。またちょっと嫌なものを扱うときもシワが寄る。
ロクロの場合はどっちなのだろう?
これでは器が可哀想だ。ニコニコとはいかないまでもおだやかな顔、愉しそうな顔で作りたい。もっとゆったりと肩の力を抜いてロクロが挽ければいいのだが・・・。
それにはもっと稽古が必要なのだが、稽古稽古と意識するとやっぱり眉間にニュウが入る。(ちなみにニュウとは焼きもの業界の用語で焼成した器にできる亀裂のこと)
今日は柿の蔕茶碗の稽古。
私がひとめぼれした茶碗は京極だ。胴のふくらみが何とも言えずふくよかだ。いい加減な釉の掛け方が心憎い。巧まぬ巧み、無作為の作為がここそこに現れている。
こういうのが一番くせものだ。禅話で「さとり」の話がある。


ある日、木樵が「さとり」という動物に出くわした。このめずらしい動物に心を奪われ、なんとかして掴まえようと思う。すると「さとり」は「お前は俺を掴まえようと思っているな」と図星を指してくる。びっくりしていると「心を読まれて驚いているな」と二の矢が飛んでくる。あんまりしゃくに障るので持っていた斧で「さとり」を殺してやろうと密かに考える。すると「その斧で俺を殺そうとしているな」と追及を手をゆるめない。
木樵は到底自分の手に負える相手ではないことを知り、本業に精出そうとした。すると「ほお、自分の手に負えないと知ってあきらめたか」とたたみかけてくる。
木樵はもうどうでもよくなった。「さとり」のことをすっかり忘れて木を伐っていた。どのくらい時が経ったろうか、一心不乱に木を伐っていると、事故が起った。斧が柄から外れて飛んでいったのだ。飛んでいった先に「さとり」がいた。木樵は「さとり」を忘れ去ったときにようやく獲物を掴まえることができたのだ。
しかし、この禅話は何の役にも立ちはしない。無作為がよいと言われても柿の蔕茶碗という目的(作為)が歴然と控えているのだ。作為を忘れたら茶碗は挽けない。さあ、作為を取るか、無作為を取るか、ここに出せ、ここに出せ。無作為底の作為、作為底の無作為を如何する。
困った・・・



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