今日のシェイクスピアは『ヴェニスの商人』
¶
当時は一種のおとぎ話として楽しまれたものと推測される。インク壺にも書いたように、そもそも誰もユダヤ人を見たことがないのだ。同じようにベルモントという架空の場所で行なわれる筺選びにも現実感はない。しかし、作品は読者・観客とともに生きつづける。ナチスによるホロコーストを経験してしまった私たちにはこの劇を人種差別の色合いなしに読み取ることはむずかしい。また、シャイロックは単なる機械的ないけにえになるにはあまりに人間的に描かれすぎた。「やさしいシェイクスピア」と評される天才も歴史の変化までは読み切れなかった。かくして『ヴェニスの商人』は「やさしくないシェイクスピア」を象徴する作品となる。
このようにこの劇は人種差別、宗教的対立といったなまなましい問題を抱えた現代劇であり、見終わったあとに言いようのない不条理感を残す。そういう意味では伝統的な喜劇のジャンルよりは『尺には尺を』などと同じ問題劇の枠に収めるべき特質をもつ。例えば場所をヴェニスからニューヨークへ移し、シャイロックをユダヤ人からイスラム教徒に読み替えたらどうだろう。危険なほど挑発的な問題劇として再評価されるだろう。そういう可能性を地雷のように宿した作品であり、どちらかが善でどちらかが悪というような一面的な解読は作品を傷つけるだけである。
シェイクスピアはしばしば登場人物の名前にその特徴を封じ込めている。マルヴォリオは「悪意」だし、ロミオは「巡礼」だ。シャイロックはヘブライ語のshalach(強欲者)に由来していることから、はじめから非難の的として作られた登場人物といえる。
『ヴェニスの商人』より約7年前に作られたクリストファー・マーローの『マルタ島のユダヤ人』にも悪名高いユダヤ人バラバスが登場し、大人気を博した。バラバスはシャイロックよりはるかに残忍で人間味のない悪役として描かれている。
筺選びは3回行なわれるが、ポーシャはモロッコ王とアラゴン王に対してかなり冷淡に応対する一方で、バッサーニオに対しては音楽と歌まで提供するという格別のもてなしぶりを見せる。しかも、その歌の中で正しい筺を教えているのだ。これは原文で読まないと分からないのだが、
シェイクスピア名台詞の朗読(wav形式)を聴く Tell me where is fancy bred,
Or in the heart or in the head,
(教えてちょうだい。浮気心はどこに宿るの?心の中、それとも、頭の中?)
という風に脚韻で正解の鉛の筺(lead)を教えている。ずるいといえばずるいのだが、それが恋心というものだろう。もっともバッサーニオは謎解きに夢中で歌の歌詞など耳に入らなかったようだが。
長くなるのでつづきは⇒https://ovid.web.fc2.com/shake
∴
花粉症、ようやくすこし遠のいてきたかな
今日は久しぶりに藁灰釉で窯焚き