今日のシェイクスピアは『終りよければすべてよし』

これは、夫から突きつけられた難問を、愛と知恵と勇気でみごとに解く痛快な女性の物語か、あるいは、策略でしか愛を得られない不幸な女性の物語か?
私に触れずに、私の指輪を手に入れ、私の子供を宿したなら、私を夫と呼ぶがよい。もし、あなたが、結婚したばかりの夫からそう言われたら、どうする?ヘレナは秘策を使って、両方とも手に入れた。これがマンガやおとぎ話だったら、めでたしめでたしの物語になっていたろう。だが、シェイクスピアはこの作品に、戦争、買春、偽証などの現実を持ち込み、簡単なハッピーエンドにはしなかった。
ラヴァッチ、パローレスから、ダイアナ、ヘレナにいたるまで、この劇では多くの人々が、性を恥ずかしげもなく語っている。もちろん、シェイクスピアのどの劇にも卑猥な表現はしばしば見られる。しかし、そうした卑猥さの多くは、例えば『ロミオとジュリエット』のように、作品内で均衡を保つことにより、恋愛の清らかさと淫らさをいわば戦略的に分離し、清らかさへと観客の目を誘導する役目を果たしていた。ところが、『終りよければすべてよし』をはじめとする問題劇では、性は、主題を浄化する装置としてではなく、主題そのものとして取り上げられる。本来、秘め事のはずの性が、赤裸々に示されるとき、観客はとまどわずにはいられない。この劇の扱いにくさはこの点にある。
主人公のヘレナは、自分に求められる役目をきびきびとこなしてゆく点では『ヴェニスの商人』のポーシャに似ているし、自分を忌み嫌う男性を執拗に追い回す点では『夏の夜の夢』のヘレナに似ている。また、身分違いの結婚を夢見て、必要なら恥も捨て去る覚悟をもっている点では『十二夜』のマルヴォリオを、もちろん彼ほどのいやらしさも、滑稽さもないが、連想させる。しかし、どの劇の登場人物とも違っているのは、ヘレナが、性的に成熟していることを隠そうとしない奔放さを持っている点だ。野心をもった有能な女性が、この世で生きてゆくことの辛さを教えてくれたのは、彼女が自分の技量を使って手に入れた夫だった。そして、せちがらい世の中でしたたかに生きてゆくのに、女性の性が武器になることに気付かせてくれたのも、ほかならぬ夫だった。ヘレナは、自分のからだを性の対象として最大限に利用することを少しも躊躇しない。その性は、快楽を生む性であり、同時に、子孫を生む性でもある。この劇に、唯一救いがあるとすればその点だ。
また、性を題材にしたおかげで、きわどい謎謎をたのしむ余地が生まれている点を忘れてはいけない。ダイアナが、自分は処女であり、かつ、処女でない、という謎をかけるとき、観客はその謎に、劇全体の絵解きが掛かっていることをいわば生理的に理解する。
それにしても、『終わりよければすべてよし』とは意味深長なタイトルだ。たしかに、終わりがよければ、すべてよかったにちがいないのだが・・・


長くなるのでつづきは⇒https://ovid.web.fc2.com/shake



炭化に挑戦!
トップから還元徐冷
こんなのが出てきた
f:id:aien:20190419085015j:plain
面白い



いつもおつき合い下さりありがとうございます。応援よろしくm(_ _)m
画像をクリックしてランキングサイトが表示されれば投票終了

f:id:aien:20190416065119j:plain



にほんブログ村 美術ブログ 陶芸へ
さらりと脱原発