今日のシェイクスピアは『尺には尺を』


『トロイラスとクレシダ』、『終りよければすべてよし』、『尺には尺を』の作品群は、シェイクスピアが書いたどの作品とも決定的に異なっている。これら3つの作品に共通しているのは、作品世界をおおう暗さだ。この暗さは、私たちに突きつけられる倫理的な難問に由来するものだが、シェイクスピアは魔法の杖をふるって、誰もが納得のゆく解決策を提示しているわけではない。問題はいわば、劇場の外に持ち越されるのだ。この作品群は問題劇、あるいは、問題喜劇、あるいは、暗い喜劇、と呼ばれて、従来の喜劇、悲劇とは別な枠に分類されることが多い。
なかでも『尺には尺を』は、提示された問題がはっきりしている分だけ、解釈の難しい作品だ。『トロイラスとクレシダ』は、愛が性愛へと流されてゆく悲哀とうしろめたさを、物陰からのぞき見るようなタッチで描いたが、『尺には尺を』は、性欲の問題を正面に据えた。兄のいのちを助けて欲しければ、私と寝ろ。暗い欲情の誘惑に負けた国王代理から、修道女見習いの妹に対して、単刀直入な要求が突きつけられる。シェイクスピアは、しかし、この難題を正攻法では解決しなかった。ベッド・トリック(抱かれる女性の入れ替え)という、すでに『終りよければすべてよし』で試みた、ちょっとずるい手を使ったのだ。
こうした、かなりきわどい性の問題とはうらはらに、この作品にはある種の宗教性が感じられる。特に、変装して様子をうかがっている公爵は、全知全能の神を思わせ、ある批評家はキリストの寓意を見て取る。しかし、この宗教性は、一直線に人間の救いへと向うのではなく、人間の救いがたさをあぶり出す方向へ向かう。とはいえ、陰鬱な空気のなか、最後の場面でイザベラがマリアナの必死の懇願を聞き入れ、膝を折って、公爵にアンジェロのいのち乞いをするところは、闇のなかに一点のともしびを見る思いがする。
僧になりすまして国情をうかがう公爵というのは、いかにも説話的な設定だが、問題とされている内容はきわめて現実的だ。シェイクスピアは、これまでの明るく、肯定的なおとぎの国を舞台にした中期の喜劇から一歩踏みだし、解決不能な問題を、未解決のまま舞台へ乗せるという新しいリアリズムを手に入れた。まさにこの世は舞台であり、舞台はこの世であることを、実験的に提示した意欲作といえる。

ANGELO. Not she; nor doth she tempt; but it is I
That, lying by the violet in the sun,
Do as the carrion does, not as the flow'r,
Corrupt with virtuous season.
(いや、彼女は誘惑してなどいない。この俺は、陽の光を受けて咲くすみれのかたわらに横たわり、美しい光を受けながら腐ってゆく腐肉だ。)
アンジェロは、清純なイザベラに欲情している自分を、腐肉にたとえて、さげすむ。同じ光を受けながら、天に向って美しい花を開くすみれと、腐って地に溶けてゆく腐肉の力強いパラドックスは、シェイクスピアの力量を示している。


長くなるのでつづきは⇒シェイクスピア全作品解説
覚えておきたいシェイクスピアのことば⇒ジャンル別シェイクスピアの名台詞集



子スズメがかわいい
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親鳥に餌をねだる子スズメ
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親鳥から餌をもらう子スズメ



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