今日のシェイクスピアは『空騒ぎ』

この劇には善意と悪意、二種類のだましの罠が仕掛けられる。害のない罠にはまるのはベネディックとベアトリスだが、最初はそれとは知らずにだましの罠にはまって恋仲になったふたりは、それがだましと知ったあとでもなお、恋の演戯(そして、遊戯)をつづけてゆくしなやかな逞しさをもっている。このあたりは『じゃじゃ馬ならし』のペトルーキオ夫婦と共通するものがある。ドン・ジョンの悪意の罠にはまったクローディオとヒーローは修道士の世間をあざむく窮余の策により救われるものの、運命に翻弄されて嘆き悲しむだけというふたりの生き方にはあやういものを感じる。シェイクスピアはこうした対照的な恋を描き、だまと知ったあとでも、それをはねのけ愛を貫く強靱な精神をたたえる一方、境遇にもてあそばれるもろさのなかにも弱者の美しさを見ている。この劇全体をつらぬく肯定的な態度に裏打ちされた陽気な気分は、それまでの作品に断片的にしか現われなかったものであり、シェイクスピアの円熟期の喜劇を特徴づけるものだ。
ドン・ジョンを創造したのもシェイクスピアの大きな収穫である。リチャード三世、シャイロックの個性的な悪役の系譜がドン・ジョンに引き継がれ、さらに、イアーゴで完成することになる。登場場面も台詞もそれほどないのだが、ジョンの闇と毒が、全体的におおらかな陽気で満たされた舞台に鮮烈な痛みを与え、この劇をおとぎ話から救っている。シェイクスピアの悪役の例にもれず底なしの魅力をたたえた役だ。
また、立ち聞きがこの作品では巧みに用いられている。ベネディックとベアトリスが自分についてのうわさ話を立ち聞きしたばっかりに、レオナートたちの陽気な罠にはまってお互いを好きになる場面は舞台で最高の効果をあげる。連続して演じられるふたつの立ち聞きの場面は、ベネディックに対しては散文で、ベアトリスには韻文で語りかけられ劇場での響きに変化を持たせる工夫がされている。
最後、クローディオがヒーローと再会する場面は不思議な感動を呼ぶ。ヒーローが生きていることは知っているはずなのに、まるで奇跡により生き返ったかのような印象を受けるのは、舞台上でヒーローを演じる役者の演戯力はもちろんであるが、登場人物としてのヒーローに与えられた詩の力と、演戯の力によるものでもある。シェイクスピアは劇場で働くこうした不思議の力を熟知していた。


DON JOHN. I cannot hide what I am: I must be sad when I have cause, and smile at no man's jests.
(俺は自分を隠すことができない。悲しい理由があれば悲しみ、冗談を聞いても笑わない。)
戦争に負けて気の晴れないドン・ジョンは「正直」さを告白するが、彼の正直はアウトサイダーが身につけた危険な仮面だ。


初めてシェイクスピア劇を劇場でみたのがの1960年台後半、劇団欅の舞台だった。福田恆存演出、岡田真澄鳳八千代の軽妙なコンビの『空騒ぎ』は底抜けに明るいイタリアの太陽を感じさせる舞台だった。シェイクスピアはこんなに楽しいものなんだと目からうろこが落ちる思いがした。
しばらくするといくら喜劇とはいえ単純に明るいだけの舞台ではもの足りなくなったのだろうか、学生のシェイクスピア劇も陰影を深めてゆき、私が見た『空騒ぎ』は舞台全体を灰色で覆い、ドン・ジョンは同性愛者として描かれていた。闇のなかにぽつりとひとつだけ明かりがともる、そんな雰囲気の舞台は欅とは正反対をめざしていた。まだピーター・ブルックの『夏の夜の夢』が来日する前だから当時の日本のシェイクスピア上演としてはかなり独創的な演出だった。
アメリカに留学中の後輩からおもしろいシェイクスピア映画が上演されて評判になっているという情報が入った。それがケネス・ブラナーの『空騒ぎ』(1993年)だった。この映画も、シェイクスピアはこんなに楽しいものなんだと思わせてくれる。欲を言えば、ドン・ジョン役にもう少しきちんとした役者を据えて欲しかった。名前ばかり有名で実力のないこの俳優の演戯はあまりに貧弱で(シェイクスピアをやらせるとこんな風に実力が暴露されるから恐い)、劇全体をおとぎ話にしてしまっている。その一方、ドグベリーたち道化の演戯は舞台を見るような邪気にあふれている。あまりにはみ出しすぎて、スクリーンを通すとその面白さが若干弱まるのが残念だが。



長くなるのでつづきは⇒シェイクスピア全作品解説
覚えておきたいシェイクスピアのことば⇒ジャンル別シェイクスピアの名台詞集



今日の窯出し
大ぶりな井戸盃
このくすんだ色見が好きだ

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井戸系はうまく焼けたが・・・

どうも貧乏性で相反する方向のものをいっしょに入れてしまう
結果は分っているのに(嘲笑)




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