人力スタンパー

さて、午後は工房でBamboo先生直伝の「はたき」に挑戦だ。

いろいろ試した結果やっぱりスタンパーらしきものが一番よいと気づいた。そこで人力スタンパー。

なかなかいい感じだ。でも、暑い。汗だくだ。

この棒は宝探しで見つけた釉のかき混ぜ棒だ。途中、細くなっているのは、釉の甕の縁に当たってすり減ったところだろう。

トントントン。

搗いていて、長い間疑問に思っていたことが氷解した。

小石原などでは水車の力で石臼を搗いている。あれだと杵がいつも同じ所に落ちるわけだから粉砕の粒度にむらが出来るのではないかと思っていた。しかし、自分で杵を搗きながら見ていて分ったのは、搗く衝撃で上の方の土や石が杵の真下に転げ落ちて来る。杵の下になった土は下へと押しこまれる。また、新しい土が上から転がり落ちてくる。この循環のおかげで、搗かれる土は絶えず交替している。同じ土が搗かれつづけるわけではないのだ。納得。

トントントン。

搗いているといろいろなことを考える。

そう言えば中国禅の第六祖は無学なため米搗き男をさせられていた。この男はお経の「応無所住而生其心」という一句を聞いただけで家を捨て仏門に入ってしまうような天才だ。学問はないが、感受する力がハンパでない。

米を搗いていると師である大満弘忍から「どうだ、米は搗けたか」と訊かれる。慧能は「未だしや」と応える。いや、弘忍が「米は搗けたか、それともまだか」、慧能が「搗けたのもあれば、まだなのもある」だったかな。それとも、慧能「搗けはしたが、まだ篩に掛けてない」だったか。とにかくそんな感じだ。

私はこのやり取りが好きだ。

悟りの境地を表した詩の方が有名かも知れないが、ちょっと理に走っている。だいたい無学なものが


菩提本無樹    菩提本(もと)樹(じゅ)無し
明鏡亦非台    明鏡も亦台に非ず
本来無一物    本来無一物(ほんらいむいちもつ)
何処惹塵埃    何れの処にか塵埃(じんあい)を惹かん
こんなに立派な詩を作れようか。後世の作文臭ぷんぷんだ。それに比べ、米搗き場でのやり取りは自然そのものだ。日常のただ中で日常を肯定しながら、無差別世界へと超越している。いいなァ。

トントントン。

今日はHamletではないが、同じ音を繰り返すのがテーマだ。

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