虚構世界の酸素

ファンヒーターを焚き続けていると軽い酸欠になる。頭痛が警告となる時もあれば、なんとなく息苦しい感じがして気付く時もある。

ゆうべから『雪のネットワーク』を読んでいる。TV用のシナリオを千本以上も書いた作者にして初めて書けるTVドラマ制作の克明な段取りなどは、30年経っても大筋は変っていないのだろうと勝手に想像して、楽しめる。1シーズン70日以上も滑るというスキーフリークならではの滑走場面の描写も真に迫っている。また、やや荒削りな文体もテンポ良く進んで心地良い。

だが、半分まで読み進んでゆくうちに突然酸欠状態になった。スキーアクションミステリーともいうべきこの小説は、筋の運び(action)だけが取り柄だ。昂揚した筋の流れを止め、詩情を立ち上げようとした瞬間に張りぼてのTVスタジオのセットまがいの現実感に突き落とされる。特にactionとは無関係な(不必要な)安手のラブシーンが読み手の情熱を一気に冷ましてしまう。ラブシーンを描かない内田康夫はこの点賢い。

時代の違いというのは抗いがたく読者にのしかかってきて読書に制約を加えるものだ。それはその時代の風俗が現代とは違っているとか、電気製品の技術が後れているとか、そういった具体的に意識しうることがらの差異を言いたいのではない。無意識に吸っている空気の差異を感じているのだろうか?そうでもない。

私が30年前の本を読んで感じているのは、おそらく時間の試練なのではないだろうか。それを乗り越えて独自の、自立した虚構世界を拓き出しうる作品を傑作というのだろう。400年前の英国の劇作家の作品のいくつかは、どう読もうとぬぐいきれない古色をまとっていながら、その古着を一枚めくると鮮やかな肌の色が輝き出る。明治の文豪の夢物語にも同じ光沢がある。

それが娯楽小説と古典の格の違いなのだろうか。