台本へ〜言葉のシャワー

いまはとにかくぼやけた脳髄に言葉のシャワーを浴びせるしかない。といって読んでいるのはごくごくかるい読み物(推理小説)にすぎないのだが。それでも言葉という単なる記号が観念の内部に生々しい存在を喚起するありさまを実感させてくれる文章もあれば、空しい情報の列挙が意味を持ち損ねた断片となって眼の縁へと崩れ落ちるだけの文章もある。

内田康夫という作家は何作か読んでみたが結局デビュー作の『死者の木霊』だけが読むにあたいするものだった。特にひどいのが浅見光彦シリーズだ。人物造形などはじめから本気でやる気持がないように見える。決して年を取らない人間の物語を100作以上も書いていれば確かに手抜きにはなる。挙げ句、自分自身まで作中に呼び出して「センセー」と呼ばせている。呆れたものだ。そういえば、TVのシリーズも80年代の何作かは別にして、ヒロインの人気に寄りかかっただけの見かけ倒しなものが多かった。

いま読んでいるのは生田直親の『雪のネットワーク』だが、こちらは適度にあぶらぎった文体でテンポよく物語を展開させてゆくので読んでいて心地がよい。推理小説の面白さはこの読み心地のよさにあるのではないだろうか。もちろん、ものが殺人犯探しだから心地よいといっても温泉につかっているような安楽さとは別物だが。