芝居をする理由

どうも胃の調子が低いせいか考えることも低調だ。上毛新聞で冬泉響を取り上げてくれるそうだ。記者がインタビューに来たのだが、どうして芝居をするのか、と訊かれて困ってしまった。理由なんかないんだな。芝居をしたいからしているだけなのに、それじゃ記者も困るだろうからと、あれこれ理屈をならべてみたものの結局大した理由は発見できなかった。

そこで改めて考えてみる。やっぱりあの音響とあの所作、そして、そういうこと全体から立ち上る煙のような時間の匂いが好きだから、ということ以上のものは白々しいだけだ。そうね、鴻上さんや北村さんとかだったら、もっと気の利いたことが言えるんだろうが……。かといって蜷川や野田のようにはなりたくないし。まあ、私は口ごもっているくらいが花なんだろう。

台本はフリーズ状態。このまま冬眠か?冷凍食品ではなく冷凍台本なんてものがあればいい。役者がそれぞれ解凍して使う。あるいは、冷凍芝居。観客が聴きながら解凍する。いや、もうすでに私の台本はそうだったことに、今気付いた。もともと舞台言語は解凍作業なしに読むことはできないのだ。

解凍には生鮮の時間とは別な、解凍の時間がある。それが楽しくて劇場に足を運ぶ。zipファイルが解凍すると膨大な量の文字データに化けるように舞台の言語も聴き手の観念世界の中で縦横無尽な膨張をくり返す。そういうビッグバンを可能にする台本がいい台本だ。

そういう一般論はさておき、私の台本はどうなる?どうなるもこうなるも、薄暗い農家の板の間の黒光りが出せなきゃ失敗なんだわさ。でも、その黒光りに誰が気付くの?それが問題だ。あの黒光りはもちろんかまどのすすが積もりに積もったものなのだが、そんな光沢、今誰が知っているの?あの大黒柱はどこへ行った?