浸み出す私
変なタイトルだが、私の実感でもある。
寝る前にときどき坐禅をする。電気を消して窓辺に坐る。網戸越しにアパートの駐車場が見える。遠くのもの音や近くの蛙の声が聞える。
そんなとき私は三人いる。
まず、私の中の私、こうして文章を書いている私。中心としての私。
それから、芯の私が対峙している世界、私がその中に存在する世界そのものとしての私。
両方とも認識可能な私のすがただ。坂部恵風に言えば主語的な私だ。
だが、打坐していると、私から世界へと浸み出して行く私がいる。もちろん、目には見えるわけではない。微かに感じるのみだ。いや、この言い方は正確ではない。その浸み出しの中で私が別の私になりつつあるのを感じるとでも言おうか・・・。
きっとこの浸み出しの中で私はひとびとと接し、世界と接しているのだろう。だが、この浸み出しは認識の対象にはなり得ない。謂わば述語としての私だ。
もっともっと浸み出したいと願う。
例えば、散歩しているときふとその浸み出しを感じることがある。そんなときは世界に包まれていることを直感する。
私のすべてが浸み出したら私は宇宙そのものになる。でも、そんな境地にはとてもなれない。往生が俗世では死を意味するように、俗なる私が見事に浸み出すのは死を迎えるときだろう。
でも、わずかな浸み出しでもいい、そんな私を楽しみたい。
今、突然、大粒の雨が落ちてきた。