差異の同一化

群馬の平野部で育った私は、遠くに山が見えないとさみしい。今日たまたま小高い丘を走っていたら夕暮の山並が遠くに見えた。勝手にあれは秩父連山ということにした。こういう見なしは何というのだろう、借景ではないし、修辞法で言えば隠喩になるのだろうが、何かこういう心の働きには呼名があるように思える。日本中に〜富士があるのはその一例だ。

呼名はともかく、こうしたこころの働きには差異の同一化が作用している。だから、それほど富士に似ていない山でも〜富士と呼ばれればそこに「富士」は顕現するのだ。

さらに一般化して考えると、私たちは自分の生活を豊かに安定させるために様々な差異の同一化を行っている。強引な例を挙げれば(日本ではまだその習慣はないが)夏時間だ。「朝8時」というイメージがある。それを利用して太陽の位置はまだ7時なのにそれを「朝8時」と同一化してしまうのだ。さあ、通学、出勤しなければ、と「朝8時」のイメージによる作用が生れる。謂わば積極的な時差ボケを作るわけだ。

慣れの問題だろうが、何だか面倒な気がする。特に夏時間を元に戻すときに文字通りの時差ボケが起りそうな気がしてならないのだが、夏時間のある国で生活している人々は、おそらく、それさえも、一種の風物詩として別な次元の差異の同一化へと昇華していると思う。

やっと夜が涼しくなったものの私の不眠症はなかなか快方に向ってくれず、差異は差異のままである。吉本隆明曰く、信仰の源泉は差異の同一化である、と。私には信仰心が足らないのかも知れない。

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