ものを書く

書くという行為には、話すことに比べ、時に抵抗する姿勢が歴然としている。
話しているときは時間の真っ只中に没入していて、自分が話していることさえ自覚していないものだ。気がついたら、おっ、もうこんな時間だ、などということがよくある。
一方、書くときは書いていることへの意識は消えないものだ。何かを書こうとしてことばの引き出しを出し入れするとき、否が応でも先人が書いたもの、かつて自分が書いたものを意識する。
書くことは時間にくさびを打ち込むことである。
くさびを打ち込めば、何ごともないかのように滑らかに流れ去る時に亀裂が入る。日常が揺れうごき、傷口から血がにじむ。
同時に、くさびは互いをしっかりと結合させる役割を果たす。垂木などの接合部に打ち込まれたくさびは、木と木をしかとつなぎ止めてくれる。裂くことが結ぶことになるのだ。ともすれば一瞬の出来事として忘れ去られてしまう私たちの営為が、書くことのくさびによって歴史へと育つ。
シェイクスピアは有名な18番のソネット


But thy eternal summer shall not fade . . .
When in eternal lines to time thou grow'st.
でも、君の永遠の夏を色あせたりさせるものか(中略)
永遠の詩の中で君は時そのものへと熟して行くのだから。
と愛する君を永遠へとつなぎ止めて見せた。自分が書いたソネットを「永遠の詩」と呼ぶとは何という自信、何という傲慢、と思うかも知れないが、そうではない。当時、詩に書かれたものは永遠の称号を付与されていたのだ。
それは上に述べたくさびの力に拠るものだ。
くさびの比喩は一見あまりに攻撃的、破壊的に思われるかも知れない。
書かれた文字は時に傷を付けはするが決してそのままにはしない。傷口の比喩を貫くなら、接ぎ木そのものだ。傷を付け、新しい枝を差し込み、より豊かな実りを生み出す樹へと育つ。
別な角度から見れば、それまでゆるやかに、おだやかに流れていた時を掻き乱し、渾沌へと導くことが書くことなのだ。
何も立派なことを言えというのではない。書くことは、何を書こうと、そういう働きをもっているのだ。ただ、書かれた内容により、あるいは、書かれた文の品格により、時のゆらぎに大小の差はあるが・・・。
若い劇団仲間は卒論を書き終えた。就職した仲間は1年目から広報の仕事を任されている。留学した仲間は書くことの重圧と闘っている。
三島由紀夫が小説作法に関して面白いことを書いている。エッセイが手元にないのでうろ覚えだが、いい文章を書く極意はすべての文章を名文で埋めるのではなく、凡庸な文章のなかにきらりと光る一文を置くことなのだという。
彼は書くことの美学を熟知していた。書くことの美徳を信じていた。だからそんなことが言えたのだ。信じていないものは全文を意味のある内容で埋めようとして挫折するのだ。
やきものもそうなのかも知れない。考えても見なかったが、新しい美というのはおしなべてそういうものかも知れない。
付け焼き刃。


 偏西風

夢上がりの二時間後
君はベランダで紅茶を飲み
アンダルシアの回廊を
唇でなぞってゐる

あっちは山
こっちは海
そっちは穴
ぢゃあ、どっちが罪

誰も知らないでまかせが
湯あたりして
追ひかけてくる
日曜日の昼下がり

カスティリアの踊り子よ
もう白壁に螺旋はいらない
指先はふやけすぎて
地中海がシミダシテキタ

関東地方に雪を降らせたのは蛇行する偏西風のせいだと天気予報士が話すのをぼんやり聞いているうちに生まれた詩。
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