或囚禁枷鎖

我らが「鈍色恋唄」は暗礁に乗り上げにっちもさっちも行かない状態が続いている。だが、今日の稽古では一条の光を見た。


或囚禁枷鎖 手足被忸械 念彼観音力 釈然得解脱
知る人ぞ知る俗に言う観音経(正確には「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」)の一説だ。観音力を念じたりはしなかったものの、固定観念を捨てたら、枷鎖に禁じられていた舞台が解脱し、ゆるやかに融け始めた。
つくづく固定観念というのはこわいものだと思った。我々をがんじがらめに縛りつけて動けなくする。
やきものの修業ではあまり観念というものの出番はない。むしろ、観念が果てたところから出発している。だから万事納得してからろくろに向うなどという予定調和の身構えでは器は弾けない。取りあえずやれるだけやってみよう。ただそれだけだ。さもないと左手の親指と中指の腹の感覚だけで器を弾き上げることはできない。観念は普遍性をもっているのでろくろのわざが観念に収ればさぞかし便利だろうと思うが、そんなユートピアにかかずらわるほどヒマな窯神はいるはずもなく、私たちはその都度その都度新しい土に向き合いながら指先の感覚で器のすがたを作り上げるしかない。
役者も同じことをしているようだ。取りあえずやれるところまでやってみよう。ただ、やっかいだなと思うのは役者のからだは見えても、役者のすがたも役のすがたも目には見えない。それをガラと言ったりニンと言ったりする。世阿弥の離見の見もそこに向っている。それが見えないと万事休すだ。
おっとっと。こんなざれごとにうつつを抜かしていると舞台の神様に愛想尽しをされちまう。剣呑剣呑。



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