春が近いか……
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雨があがって
日が射してきた
気になる器を拾い見する。おっと感じる表情を持っているのは大抵粉引だ。しかし、私は粉引はやらないつもりだ。何となく反りが合わない気がしている。化粧というもの全般にあまり関心がないのだ。それなのに、触手が動く器の多くが化粧されたものというのが皮肉である。
化粧せずにあの質感が出せないのだろうか……。
それが私の目標だ。ちょうど冬泉響の舞台で、照明はベタで当てるだけ、芝居の最初と最後のフェイドインとフェイドアウト以外、一切変化を付けないのと同じ感覚のような気がする。
見ているなかに高名な(といっても陶芸というより、その前の肩書きの方が有名なのだが)作家の茶碗があった。どれもみな素晴らしい出来映えである。だが、じっと観ているうちにある種の線の細さを感じた。茶碗の線はきれいなのだが、その線が内から出てきたものではなく、外付けされたもののように思えたのだ。実物を手に取らずに判断を下すのは早計だが、ある意味で写真の冷ややかさは意外に真を写しているようにも思える。
自分もつい線の美しさを追いかけてしまう。ろくろでも、書道でも。だが、懐素の草書のように、そして、それを追究した良寛の書のように、一見くずれて見えて実は奥深くにしっかりした礎をもった線こそが美しい。
まだまだその領域にはほど遠い。