役者の孤独
昨日は山房で第2回の沙翁寄席『じゃじゃ馬ならし』が行われた。
思うに、役者(演者)というものは孤独である。受け取る側はのほほんと聴いていればよいのだが、演じる側はちょっとのミスも許されないので開演前の稽古でも空気は張りつめている。
やきものにも施釉のようにちょっとしたミスが命取りになることがあるものの、概ねゆるやかに時間が流れている。そこが一瞬一瞬初めてで最後の時を明滅させる時間芸術との大きな違いだ。もちろん、どっちがよいという問題ではない。根本的に性質が違うのだ。
それでも、今回の沙翁寄席、終幕に差しかかりカタリーナの長台詞をたっぷり間合いを取って、シェイクスピア英語独特の無韻詩の抑揚で、美しく語り上げるのを聴いていると、上質な茶碗にただよう静謐な時と同等のものを感じた。謂わば、時を超えた時の声とでも言おうか。
さて、明日は焼き直しの窯焚きだ。