魚は陸に上がらず、鳥は水中に棲まず




いちにちくらくらしている
曇のせいなのか
いや
年のせいかも


とあるサイトで小林秀雄のことを「いけ好かない」と言っている文章(つぶやき)に出くわして驚いた。もちろん小林本人がいけ好かないのではなく、彼の文章が、である。

驚いたというのは、批評に対してそういう反応をする類の人間がいる、ということに対してである。もちろん、どう思おうと個人の自由である。だが、例えば、あの人の踊りはいけ好かないとか、あの人のバイオリンの弾き方がいけ好かない、というのと、誰それの論文がいけ好かない、というのは次元が違う。

感性そのものの世界に感性をぶつけても違和感は感じないのだが、知的活動に対して感情的な反発を示すのは、何だか子供じみた感じがした。

確かに初期の小林の文章は例のべらんめえ調が彼特有の文章体に混入して気取っていると見えなくもない。しかし、その文体も彼の意図のうちにあるわけだから、語り出す内容に対して意見が合わないと反論することはあっても、好き嫌いという反応は私には考えられない。それはあまりに幼稚な問題のすり替えというものであろう。

と、ここまで書いて思った。いや、こんなことはどんなに書いてもむなしいことだ。住む世界が違えば、反応の様式も違うのだ。

住む世界が違うと話は噛み合わない。茶碗を語って然り、舞台を語って然り。こうした目に見えるものでさえ、芯に据えるものの違いでまったく違って見えるのだ。まして、ことばという記号で巧みに構築された観念の世界の齟齬は想像を絶するものがあろう。

要は良き友を持つものは幸せだということである。幸いなことに私の周りにはこういうひとはいない。ネット社会ではひょんなことからこうした言動に出くわしてしまう不運がつきまとう。おかげでゆうべは輾転反側である。

まあ、バーチャルな事故だと思って忘れよう。




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