ひと区切りの2日




田んぼに水が入り
今夜、蛙の大合唱

粕川アートフェスティバルが終った。
やきもの生活をしばしエポケーして台本生活に移行する時節になった。

やきものはあくまでも現実即物の世界だが、舞台はどこまでも虚空界だ。最後には画餅でつながると分ってはいても、その会得はまだ中途半端なままだ。

現実などというものはない。あるのは現実についての観念だけだ。

とも言える。

観念などというものはない。それは現実の影にすぎぬ。

とも言える。

だが、茶碗が現実だとしたら、そんなつまらないものはない。それはただのどろのかたまりにすぎない。そこに虚空の網がかかるから俄然茶碗が宇宙になる。だが、柿の蔕の写真はどんなに精巧な印刷を経ても紙の上の影にすぎない。

だから、思惟する手ざわりが必要なのだ。現実も観念も否定した上に、たしかにそこにある夢見る感触。それは夢でもなくうつつでもなく、その中間でもなく、すべてを肯定、否定しつつ「今、ここ」にあるもの。

禅者はそれを「是什麼物恁麼来」(これなにものかいんもにきたる)と言った。あえて訳せば「どんなものがどんなふうに来たか」あるいは「こんなものがこんな風に来たぞ」だろうか?

こんな画餅をぱくぱく食べて腹がいっぱいになったらなあ……


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