風のハルカ

何となく見始めるようになったら毎日の習慣になり、去年の暮れあたりから見えているが、母親役の演戯が鼻についてたまらない。宝塚では花形だったのかもしれないが、場所をわきまえないと、浮いてしまうものだ。逆に言えば、空気の読めない役者は大根役者ということだ。ひとりで勝手な振舞いをしている。物語でも勝手気ままな母親だから、それでいいという言い訳も成り立つが、そうも行くまい。というのも、振舞いは相手あってのものだからだ。誰に対する振舞いなのかが重要になる。役者への振舞い、役への振舞い、観客への振舞い、すべて枠が異なる。そして、それらがすべて統合されて作品となる。

ピーター・ブルックが言っているが、演劇は役者だけでも、観客だけでも成り立たない、両者が出会う場にこそ、演劇は成立する。TVドラマでも原理は同じだ。

役者のなかでひとり振舞い(演戯の方向性、スタイル)が違うと、舞台の空気はにごってしまう。私たちはにごった空気の中では舞台を見通すことが難しい。このTVドラマの妙に現実離れした感覚の原因は、ストーリーのあり方にではなく、ここにある。演出は何を見ているか。

それとも舞台の外の政治(経済)力学に押しやられて何も出来ない状態にあるのだろうか。何となくそういう言い訳めいたものも感じる。言い換えれば、このTVという舞台では無能な女優は、勝手気ままに、舞台も観客も無視した振る舞いのなかで傲り高ぶっている。

最近の松嶋菜々子古畑任三郎で同じあやまちを犯している。もともと大して芝居の上手な役者ではなかったが、周囲のよいしょを鵜呑みにしておきまりな演戯のパターンを繰り返している。演出は何をしているのか。あまりにばかばかしくなって途中で見るのを止めた。