闘病という隠喩〜河野知二

たまたま見たTV番組でこの人を知った。群馬県在住というのも親しみを感じた。この人は末期がんで余命一年を宣告されながら、オーストラリアで行われたラリーに夫婦で参加し、1345kmを走り抜いた。

死の恐怖は如何ほどだろう。私だったら自棄になり、すべてを投げ出して、自堕落な毎日をすごしてしまうかも知れない。河野氏も最初はそうだったという。ある日、娘さんが幼稚園で覚えてきた宮沢賢治の「南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい」の一節ですべてが変った。大切なのは長く生きることではなく、どう生きるかなのだと考えるようになったという。その一つとして長年たずさわってきたラリーを選んだのだ。

だが、走り抜いたことに感銘を覚えたのではない。もちろん、それだって常人の能力を遙かに超えた偉業だ。しかし、私のこころを動かしたのはそういう偉大さではない。

毎日を嘔吐と苦痛で呻きながら過しているのに、ほがらかなのだ。そのことに無性に感動した。病気と闘うというより、生きることを慈しんでいる。

闘病という観念が崩れた。私は自分のささやかな病いに大袈裟な闘病という隠喩の網をかぶせて生きて来た。そもそもその隠喩の道案内が陰湿でせせこましかったのだ。自分に同じ生き方ができるという自信はまったくないが、少なくとも人間にはほがらかに苦しむという逆説を生きる力があるのだ、と河野氏から身をもって教えてもらったことに感謝したい。

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詳しくは「1095日のガマン」をご覧下さい。
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