グローバリズム?

コスモポリタニズム、インターナショナリズム、そして、今はグローバリズム……時を移しながら、そして、その時々の状況を反映しながら、「目先の利いた」文化人がこういう呪文を何度も唱えてきた。

勘三郎もそういう波に乗り遅れまいと(失礼ながら、そういう点ではからきし不器用な感性を総動員して)必死になっているように見える。かつてNHKが「日本の祭」とかいう番組で日本列島津々浦々、古くら郷土に伝わる祭文化を体育館や文化会館に招集して放送したことを思い出さずにはいられない。もちろん、そんな会場の舞台に収まる祭はない。要するに、放送されたのは放送文化の舞台に載るように手直しされた「祭」だった。そして、それを日本の民族芸能だの、郷土の文化だのと持ち上げた。NHKからすれば受ければいいのだ。だが、それで日本の祭は日本人の観念世界の中で崩れたと言える。TVの力は強力だ。祭が一気に陳腐になった。(もちろん心ある人々の手で、土地に根付いた祭は舞台上ではなく、その土地で守られてはいるが)

勘三郎は同じことを今度は国際舞台の上でやろうとしている。いや今回が初めてではないから、もうとっくにそういう船出をしているのだ。どんなに古典芸能と言われようが歌舞伎だって所詮は娯楽なのだ。観客に受入れられてなんぼの世界だ。それも分るが果たしてそれでいつまでもつのか?

RSCが同じあやまちを去年暮れの『夏の夜の夢』公演で犯している。人形浄瑠璃にヒントを得て慣れない手つきで人形をあやつったものの、結果テンポが遅くなっただけで舞台は台無しになった。日本人はそんなものでは喜ばないのだ。同様のことがアメリカ人にも言えるだろう。最初は珍しがって喜んで見せるだろうが、それだったらミュージカルの方が数倍面白いと、数年後には掌を返すだろう。

岩田慶治によれば、かつて文化人類学研究のフィールドワークでは研究者の視点で民族文化を見た。多くの場合見下したといった方が正確かも知れない。当然、得るものはない。その反省からフィールドワークの姿勢が変った。外からではなく内から理解しようとした。中沢新一も学者としてというよりチベット仏教の僧侶として修行をした。中沢が来ようが岩田が来ようが、チベットはあくまでも峻厳なチベットであった、タイの村落はどこまでもタイの村落の誇りを守っていた。

それが文化というものの姿だろう。勘三郎よ、目を醒ましてくれ!