コクーン歌舞伎「東海道四谷怪談」

勘三郎コクーン歌舞伎東海道四谷怪談」(南版)を観てきた。結論を言ってしまえば、抑制の美学を忘れた歌舞伎はもはや日本の芸ではない、ということだ。

ニューヨークの、日本文化も芸能も何も理解しないアメリカ人向けの歌舞伎ショーを観た、という言い方がいちばんぴったり来る。だから一旦閉まった常式幕がふたたび開いてカーテンコールとなる。客はスタンディングオベイションをする。役者はノリにノッテ拍手に応える。

Bunkamuraという異世界では歌舞伎をディズニーシーショーやドリフターズショーに早変わさせることを「挑戦」という呼ぶらしい。

ニューヨーク公演も決まっているらしい。誇らしげにそんな口上を述べていたが、これはそのリハーサルなのだろうか。ここは日本ではないのか?観ているほとんどの客は日本人ではないのか?日本人もずいぶんバカにされたものだ。バカにしている張本人がそのことを全く分っていないらしいのにますます興ざめした。興ざめをこして腹立たしくなった。

アメリカ人に媚を売ってまで海外公演がやりたいのか?海外公演をやることがそれほど歌舞伎の質を高めてくれるのか?

歌舞伎界はまだ舶来崇高に取り憑かれているのだろうか。哀しい。まったく情けない。

観客にこびることは卑しいことだ。勘三郎名跡にふんぞり返っているとこんな為体になる。実験的、意欲的……聞こえはいいが、それは勘三郎という大御所に誰も正直なことが言えないということではないのか。どこかの国の総理大臣みたいなものだ。

こんなに響きの悪い下座音楽を初めて聴いた。長唄も下手くそだったし、三味線もいい加減だ。投げやりと言ってもいい。禅の勤めなどはひどいもので陰に籠もっておそろしく……などというものではない。あんなでかい音で鐘を叩かれては南北殿も眠れまい。

いや、もしかすると歌舞伎界の裏方さんたちはいやいやながら梨園の御曹司に駆り出されたからこんな演奏をしているのではないだろうか。立場上いやとは言えないから心ならずもの演奏で有頂天になって聞く耳をもたないご主人を諫めているのだ。そんな裏読みをしたくなるほどの音響世界だ。

では、ひどいばかりの舞台だったかというとそうではない。よい点もあった。特によかったのが一階席の平戸間だ。そこには座布団が敷いてあり、観客は坐って観劇する。私の席は二階席だったのでその様子を見て江戸情緒を感じた。また、舞台そのものも歌舞伎座国立劇場ほど高くないので観客との位置関係が非常に近い。退場の時に役者が平戸間の席の中にずかずか入っていったりする。こういうのはとてもよい。花道がなくても歌舞伎は出来る、いや、花道はこういう親しさを生むためにあったのだ、と実感させられた。

また、長い一幕(この舞台は二幕構成)を一気に上演するのは功罪あい半ばするがお岩の心情を丁寧に描くことができるという利点があった。これは怪談ではなく悲話なのだと、四谷怪談を観ていて初めて思ったほどだ。約二時間通して演じることにより感情移入がしやすくなったからだろう。

分りやすい芝居になっている。理に落ちたとも言える。怪談は割り切れたらもう怪談ではないのだが、みごとに割り切れる舞台になった。だからだろうか、ちょっと理解に苦しむ場面に遭遇すると観客は笑った。理解できるのが当然という気風が既定になってしまったからだろう。それでも分りやすさは評価してもよいと感じた。もちろんそのために南北独特の深い闇が消えてしまってはいるが……。

それにしても、こういう良質の舞台を台無しにしてしまう二幕は頂けない。演出の串田氏はどこまで関わっているのだろうか?普通、歌舞伎に演出家はいない。彼は単に名前を貸しただけなのか?あるいは、あのセンスのかけらもない書割を書いたり、高い料金の言い訳に作ったようなバカでかい仁王像の図面を引いたり、終幕、雪をドリフターズショーと見まごうほどバケツでどかどかと落せと命じたりしたのだろうか。

不可解だ。すべてが不可解だ。それとも日本人はこういうゲテモノだけをうれしがる民族に成り下がってしまったのだろうか。そうではない、そうではないと祈りたい……。