志ん朝の「芝浜」を聴きながら

ロクロを廻しながら古今亭志ん朝の「芝浜」を聴いていた。この落語は明治の落語家、三遊亭圓朝の作と伝えられている。
三代目三木助が十八番としていたという。三木助の「ざこ八」と「崇徳院」は聴いたが、「芝浜」は不勉強で聴いたことはない。
落語の芸は声だけではないのだが、話芸というくらいだから声でほぼ判断できる。三木助のはよく言えば品がよいが、悪く言えば暗い。高座をぱっと明るくする花に乏しい感がある。
そこへ行くと志ん朝には花がある。しかも、私たちと同時代人である。噺のテンポが速い。
父親の志ん生の落語はCDで流布しているのでたまに聴くが、往年の名人も時代には勝てない気がする。あの時代にはあのテンポが合っていたのだろう。落語だけではない。私の好きな2時間サスペンスも、古いものの再放送だと、中には時代の変化を感じさせるゆったりした展開のものがある。映像や録音版になって残ってしまうとこういう不都合が起る。まあ、聴き手が合わせればいいのだが、楽しみを感じる感性は思いの外頑固で、そう簡単に好みを合わせてくれない。
じゃあ、志ん朝なら面白いかというと、どれもが一様に面白いというわけではない。志ん朝の「芝浜」は二種類持っている。今日聴いていたのはたっぷり語っている48分版だ。枕も長く、仕込みも工夫を凝らしてある。だが、この噺のヤマ、大晦日、女房の口説きに差しかかってやや不満が頭を出した。37分版のを聴き慣れているせいもあるのかも知れないと、今改めて短い方を聴き直してみたが、慣れだけではないことに気付いた。
噺家も人間である。当然その時の調子の善し悪しがある。だが、それ以前に、客のノリもある。すぐ前の噺との相性もある。それを高座から切り離して聴くわけだから、無理があるのは承知だ。承知で言うと、短い方がはるかに出来がよい。大晦日のヤマでうっかりするとこっちもつられて泣きそうになる。同じ噺なのにこの違いはいったい何から来るのだろうと考えた。
しかし、素人がちょっとやそっと考えたところで噺の極意が見つかるわけもないとあきらめた。
志ん朝は人情噺がうまい。「文七元結」「子別れ」「井戸の茶碗」「浜野矩随」など何度聴いたか分らないくらい聴いているがその都度、あるものはほだされ、あるものは爽やかな気分になり、あるものは深い感銘を受ける。
大分前になるが圓朝の「芝浜」を歌舞伎で観た。世話物狂言『芝浜の革財布』である。音羽屋、尾上菊五郎が熊を演じていた。女房の方は失念したが、大晦日の件りでまったく感動しなかった。女形の芸をどうこう言うのではない。この噺は舞台でやると、一番いいところがかき消えてしまうのだ。すべての話芸が舞台に向かないというわけではないのだが、こと「芝浜」に関する限りむずかしいようだ。
もっとずっと前、エノケン主演の映画だったかTVドラマだったかに「野ざらし」を挿話に用いていたのがあった。エノケンなどというと、ん窯の五郎はいったいいくつだと言われそうだが、エノケンは1953年にTV出演をはじめているので、私が子供のころにはTVや映画で観ることが出来たのである。「野ざらし」も結果は失敗だった。所詮幽霊をクールなスクリーン(あるいは、ディスプレイ)に乗せるのは難題なのだ。しかも、怪談ではないから、おどせばいいというわけではない。
これも噺家の独壇場である。
手持ちの落語72篇、すべてをSDHCに移し終えたので、最近はわが家のミニコンポからは落語ばかり流れている。

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