反復のパラドックス

舞台の空気には独特の色がある。分るひとにはそれが見える。また、作品には作品の色がある。こういう色は役者の意識や知覚から絶えずすり抜けて行くものだ。だが、色がない舞台は駄作であり、失敗作であり、舞台に載せる資格を持たない。だから、役者は色を出さなければならない。自分では決して見えない色を自らの努力で作り出さねばならないというのは何という難題だろう。

また、役者の力量とは別に時の恵みというものが舞台にはある。舞台稽古は(特に通しに入ると)繰り返しが中心だ。繰り返しが色を生み出す。繰り返すものには分らないところで、いつの間にか色が生まれている。怖ろしいことだ。同時に、ありがたいことだ。

だが、単に繰り返すのではない。舞台はいつも生まれたての舞台でなければならない。ここにディレンマがある。同じものを二度やるから繰り返しになるのに、同じものを差し出すことは禁じられている。

でも、こういうにっちもさっちもいかないところが芝居の醍醐味だ。

「初夏栄村奇譚」はまだにっちもさっちもいかない局面に到達していないという大問題を抱えている。役がまだどれも未熟だ。ある役は稽古不足が歴然としている。ある役は皮膚感覚的想像力が欠如している。ある役は惰性に流れている。ある役はからだの美への執念が足らない。声がまだ舞台の声になっていない初心のものもいる。繰り返しの安定からはほど遠いものもある。

劇団というものはそういうものだ。本番まえという時間はこういう時間だ。すべてが不調に見える。すべてが見当違いに見える。こういう自律神経失調症を癒すのは観客しかないのだ。本番よ、はやく、そして、ゆっくり、来い。