さらばハレの舞台

ハレの舞台ということばがある。ハレとケ(ハレ、ケ、ケガレの循環的浄化・更新説)はつとに有名だが、まだこの論争は一定の結論には至っていないらしい。文化人類学の細かい議論はさておき、舞台はハレと仲がいい。ハレの舞台とは言うが、ケの舞台とは決して言わない。そこにハレの本質がある。

私は大学というハレのケが交替する場にいたが、そこではあまりにケが支配的で(「初夏栄村奇譚」のことばで言えば、雨の樹が大きすぎて)私のからだから熱を奪っていった。

例えばゼミというシステム。

私のゼミはケの対極にある。定刻を20分ほど遅れて3時頃に始まり、7時頃に終る。時には9時をすぎることもあるし、6時前に終ることもある。私の考えではゼミなるものは文学共同体の活動であり、時間割という理不尽な便宜に縛られるべきものではない。だが、そういう考えはケの平滑な時間のなかでは規則破りなのだろう。

学生は実によく頑張る。頭脳をぎしぎしときしませながら自分の能力を最大限に発揮する。当然のことながら卒業時には数段の進歩を遂げる。特に思い出すのは今年の卒業式で答辞を読んだ我がゼミのコヤマさんの勇姿だ。まさにハレの舞台であった。いや、毎回のゼミがゼミ生のハレの舞台なのだ。答辞を読む栄誉や、優れたエッセイを書いてゼミのサイトに載せられる栄誉を与えられなくても、毎回のゼミにふらふらのからだを運んでゆくことがハレの舞台なのだ。

時々思う(いや、今となっては、思った)……この温度で学科のすべてゼミが運営されたなら、と。だが、賛同者はいない。履修する学生の側から見れば、かたや90分のフツウの授業、こなた時間制限無しのデスマッチ、となればフツウの授業に殺到する。ま、おかげで私のゼミは狭いながらも資料の揃っている(そればかりでなく、お茶道具、冷蔵庫も揃っている)研究室で行えたことをよしとしよう。

また、パフォーマンスコンテストというハレの舞台になり得る行事が年に一度我が学科にはある。ところが、これが実際にはケの舞台でしかない。いや、ケの舞台でさえない。ここにケを持ち出したらケに失礼だ。ほんのわずかな時間外の指導をすれば学生は格段の進歩を見せる。今年の大会ではそのために要した時間はわずか数時間にすぎない(もちろん、学生が個人で稽古する時間は別だが)。だが、指導すべき立場のケの住人はその時間さえも惜しむ。当然のことながらコンテストは悲惨な結果になる。その原因は舞台技術指導や、英語の発音指導の欠如ではない。そういう具体的な技術よりももっと根源的なものが欠けているのだ。

それはハレの舞台の精神だ。

そもそも文学とはそういう精神の活動ではないのか?詩を読むというのはそういう魂の運動ではないのか?シェイクスピアを読むというのは、舞台と哲学へと飛翔する感性と知性の飛翔ではないのか?さもなければ、この古典中の古典は博物館の陳列ケースに収まってしまう。カント先生、あとは基礎ゼミでよろしくお願いします。

話を大学から芝居へと転じよう。

芝居はハレの舞台だ。私は31年間も芝居に関わってきた。いつのまにか31年経ってしまった。芝居を辞めるのは芝居に飽きたとか、限界を感じたからとか(とっくに自分の限界は感じておりますです、ハイ)、団員がワガママだからとか(そもそも団員は全然ワガママではない……あっ、ひとり例外がいた)ではなく、ケの側に立ちたいからだ。

ケの側に立って初めてハレが見えると、今にして分ったからだ。死ぬ前にこれだけは見ておきたいのだ。「初夏栄村奇譚」のことばで言えば、チャタワングを見つけたいのだ。チャタワングは見ていると消えてしまう。見ているうちに大きくなる雨の樹と正反対だ。だが、雨の樹を見ることでしかチャタワングは見えないのだ。

もちろん、そのケは象牙の塔の才人が謳歌しているケとは本質的に違う。ケ、ケガレ、ハレという循環のなかにあるケではない。ケのままでハレであるようなケだ。

私は茶碗を作ろうと思う。茶碗は雨の樹だ。だが、茶碗は雨の樹ではない。チャタワングへの通路なのだ。ミミズを半分に切ったとき、首はどっちのミミズに付いているのか?答は簡単だ。首はミミズに付いている。ミミズに「どっち」はない。「どっち」は迷える人間の業から生まれる。だから、ミミズを切るとそのミミズは二つになると木闇が言った瞬間、木闇の雨の樹はチャタワングへの通路を塞いだ。その木には闇だけが残る。

根源的なケの思想に立てば、いくつに切り分けようとミミズはミミズだ。土はケの原理にある(土はミミズだ)。それを切り分けて茶碗を作ろうと思う。茶碗のなかにチャタワングを見つけたいと願う。