昨日、還暦

あまり実感がないからわざわざ書かなくてもいいのだが、伝統への礼儀かと思い御挨拶を。おそらく数え切れない数の先輩がたも実感はなかったのかも知れない。いや、そんなことを感じるのは高い平均余命のなせる業か?無常を日常として生きていた(小林秀雄のことばを借りれば)鎌倉時代の女房には還暦など夢の又夢の世界だったかも知れない。実感の有無はともあれ、私は60年を生きてきた。暦が還ってきたわけだから、陳腐な発想だが、生れ変わったことになる。

だが、生れ変わるということはなかなか大変なことだ。人間、過去にすがって生きている。ほとんど無意識にすがっているからタチが悪い。今までの安定は場の安定だった。空間的にも精神的にも生きる「場」をしかと持っていたから安定していた。だが、その「場」を棄て去ったときいったい何が残るのか?

シェイクスピア、大学、劇団と無縁の世界で生きるには何が必要なのだろう?あれやこれやと考えているうちに、フト気付いた。私は今まで(少なくとも大学で教鞭を執った26年間)確固としたかたちへの執着なしに生きていた。謂ば、生きていることそのことがすべてに優先し、すべての存在理由になった。

だが、今感じるのはまったく逆だ。生の実感をもって生きることなどどうでもよい。寧ろ、モノそのものになりたい、という願望だ。

これはどういうことだろう。過去のよすがを失った人間が本能的に取る防衛機制(昇華)なのか、それとも、過去への反動として心の眼に映った新たなよすがなのか、今の私には分らない。ただ、ひとつはっきりしていることは、モノそのものになることは心楽しいということだ。