述語の戦い

ひさしぶりに死の不安を覚えた。風呂に入っているときだ。温かい湯につかりつかの間の安息を感じていたその時、こういうことを感じること、そのことが永遠になくなるのが死だと思った。もし一年のいのちを宣告されたら、どんな思いでこの湯につかるのだろう。何にすがっても死を免れることはできないのだ。そのとき不意に死が身近になった。

死は決して死そのものではない。もし死そのものなら私たちはなにも感じることも怖れることもできないから。死はいつも私たちにとっては予期なのだ。生きることがもうひとつの述語であるように、死とは究極の述語なのだ。だから生という述語のただ中にいるときに死は身近になる。

死ぬことはこわい。死への苦しみもこわい。それを思うと自死するひとの気持も手に取るように分る。だが、それで楡の木は見つかるのだろうか?(cf. http://www.geocities.jp/todok_tosen/todok/semi/6e980130t.html

私の敬愛するSさんを見舞ったとき、Sさんは死の床で氷を口に含みながら、はにかむよう微笑んで、ぽつりと「これが一番の楽しみなんだ」と言った。こんなことしか楽しみがないんだ、わずかに自嘲の響きを感じた私は、それを自棄のことばと思った。長い間そう忖度してきた。だが、いまはっきり、そうではないと感じる。Sさんは生の述語を死の前にかざして最後の日々を生きていたのだ。それは戦いと呼ぶにはあまりにかよわい営みかも知れない。でも、Sさんはそうやって楡の木をしかと見据えていた、と信じる。

もうすぐ命日がやって来る。