悲しい闘志

加藤唐九郎の作品を何冊かの本で見る。志野もすごい、唐津もすごい、黄瀬戸も、瀬戸黒もすごい、なにもかもすごい。出るのはただため息のみだ。ある本の頁をめくるとそこには唐九郎のぐい呑みが並んでいた。何かになぐられたような感覚がからだを走った。絶対に到達不可能な世界がそこにあった。その時からだを駆けめぐったものは何だったのだろう。真っ先にやってきたのは絶望の悲しみだ。この距離の遠さはどうだろう。作品から立ちのぼる香気のすさまじさはどうだろう。その上、語録には、ロクロを始めるのは二十歳では遅すぎる、とある。

だが、私はあきらめたわけではない。寧ろ闘志が沸立つのを感じる。闘志は勇壮なもののはずだが、いま私の中に立ちのぼる闘志は何故か悲しみの色に染められている。といって負け戦の悲しみなどではない。この悲しみはmythical sorrowとでも言うべき厳粛な悲しみだ。いま、新たに調合した瀬戸黒釉を掛けた器の焼成を待っている。