あ〜あ

昨日も書いたように、ためこんだ素焼きの器を見ているうちに(何を考えたか、あるいは、魔が差したのか)ほとんど全部を絵唐津風の絵付けをして透明釉を掛けてしまった。どうしてだろう。師匠の工房にいるとどういうわけか正常な判断がときとしてできなくなる。なんだか、焦るのだ。昔はせっかちな人間だったが(そして、基本的には今も同じだが)、こと陶芸となると話が違う。技術が追いつかない。好んでゆったりしているわけではないが、よく言えば悠然と、悪く言えば鈍重に心も体も動く。そのため、工房の着実な時間に馴染めず(?)つい焦る。

あのぐい呑み、絵唐津の練習用にしなければ、特製の透明釉、瀬戸黒釉、黄唐津釉の試験用にできたのに!今さら悔やんでも仕方ない。もう少し陶工の時間を生きられるようになりたいものだ。

今は野焼きの季節だ。回りの田圃は稲刈りを終え、刈り取った稲の藁や脱穀した籾殻を焼いている。次に蒔く麦のための土作りだ。この稲の藁灰は陶工にとって極めて重要な材料となる。さっそく近くの田圃から分けてもらい、水簸している。何度か上澄みを捨てたら、布袋に入れて乾燥させて初めて使えるようになるのだが、今から楽しみだ。分けてもらったのはバケツ一杯分だけなのでたいした量にはならないが、天然の藁灰の味は合成藁灰とはまったく違うから、釉にする日が待ち遠しい。

今日はご飯茶碗の練習をした。味わいという点を除くと、筒茶碗の方が技術的にははるかに簡単だ。ご飯茶碗はせり上がってゆく曲線の維持が難しい。見込の柔らかな広がりも必要だし、均等な厚みの調節も不可欠だ。作ってはつぶし、作ってはつぶして一日経った。と言っても洗面所工房に一日こもっていたというわけではないが。

明日もご飯茶碗の練習だ。どうもこういう練習が苦手で、つい筒茶碗に走ってしまう。いけない、いけない。