切立湯呑と青山運歩
4日目にしてようやく訓練校時代の感触が戻ってきた。粘土も違うし、あの時より薄く引いているのでまったく同じというわけには行かないが、基本はいっしょだ。利休君やEcho君は毎日やっているというから、もうずいぶん熟達していることだろう。
初心に還るのは何事でも肝要だ。
ロクロを引いていると頭の中が静かになる瞬間がある。もちろん意識の奥ではこの指をこうしよう、あの指はああしようとか考えているのだろうが、少なくとも意識の表面からはそういうさざ波がすっかり静まり、湖面はたいらになっている。
そんなときは茶碗を作るためにロクロを引いているのではなく、この静寂を味わうためにロクロを引いているような気持になる。本末転倒ではあるが・・・。
そんな静かさを別なことで味わったことがある。
私が以前やっていた劇団で一番重きを置いていた基礎稽古が「青山運歩」と名付けられた能のすり足に似た所作だ。これを舞台上で危なげなくこなせるのに、役者の技量にもよるが、大体3年かかった。はじめはぎくしゃくしてとても滑らかに歩くことは出来ない。真冬でも汗みどろになるほどの運動量だ。微かに中腰に腰を据え、薄氷の上を歩くようにすべらかに進む。歩くと言うよりはからだを運ぶと言った方が近いかも知れない。すいすい動くわけではない、青山が歩くようにと名付けられているように、極端にゆっくりと進む。
これを考えついたのは、ひとつは剣道の足の運びであり、ひとつは麿赤児のワークショップでやっていたゆっくり歩きがきっかけだ。麿の歩きは20mを20分くらいかけて歩くのだからその遅さ加減は半端ではない。私たちのはそれほど遅くはないが、やっているうちに能の所作とほとんど同じになった。あとで日本舞踊の所作にも通じることが分った。
バランスがいのちだ。普通に歩いているとバランスは取ろうと思わずとも自然に取れている。だが、超スローモーションで歩くと、やってみれば分るが、右に左にゆらゆら揺れる。足指で畳をしかと掴みゆれを静めて歩く。
私なら70kgのからだをそうやって運ぶわけだから大した運動量である。
はじめのうちは雑念かまびすしくまともに歩けない。ひとによっては息切れして立往生する。見ている分には大した運動に見えないのだが、やってみるとその違いに驚く。
それを10年以上稽古しているとあたりが静まり返る瞬間がある。実に気持がいい。気持がいいと思いながら青山運歩はできないが、あとで爽やかな気分になる。
ロクロの静寂もこれに似ている。ロクロの方はまだまだ駆出しで、青山運歩で言えば、ようやく息切れせずに稽古場の端から端へ動けるようになった程度だ。
何ごとも底では通じるのだなと思う。