の・ようなもの

ぎとぎととした暑さの部屋(室温35.9度)で、森田芳光の劇場用映画のデビュー作(1981年)を観る。

落語家の卵とトルコ嬢(今では廃語だが)の淡白な交わりを軸に、落語家仲間をからませて、青春群像を描き出す。秋吉久美子が持前のけだるさで好演している。クレジットでは主役だが、ストーリーでは脇役というところが、この映画の特徴をよく現している。というより、誰もが脇役なのだ。

東大安田講堂攻防戦、浅間山荘事件後、約10年、燃尽きてしまい白けきった若者像を描いた先端の作品だったのだろうが、今観ると、男たちが可愛いくらいに人なつこく、かつ、熱い。

この映画で若者たちは、もっと血をたぎらせるものが欲しいと、ほとんど無自覚に感じながらどうすることも出来ずに半発酵している。燃えるには熱が足らず、すべてを否定し、虚無主義に走るには熱が高すぎ、彼らは一様にぶよぶよと、情熱太りしている。

かといって何もしないという現代の選択はまだあり得ず、ただ何となく一応の目標(落語真打)に向って即かず離れず群合っている姿から時代の中途半端な「熱気」を感じる。今はひととひとがこんな風につながり合うなど、思いもよらない。もちろん実人生でつながり合っている人々はたくさんいるのだが、芸術表現のノームとしては受入れられないだろう。

思えば、過激派の時代、つまり、フォークソングの時代でもあるが、人々は密着しすぎた。その反動が今に及んでいる。これからもっともっとひとは孤立して行くだろう。そして、これではたまらんと、歴史の振子が自ずから戻って行くのだろう。それがいつになるかは誰にも分らないが・・・。

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