久しぶりのロクロ

なんやかやでなかなかロクロに向う時間が取れなかった。そのうちに腰痛が再発しそうな気配を感じ、ちょっと大事を取ったりとで、久しぶりのロクロだ。

今日はもぐさ土で稽古した。窯場が決まるまで(たぶん、春まで)はひたすら稽古の日々を送るしかない。送るしかないが、その「しか」がある意味では貴重な時間を与えてくれている。

ようやく土と話が出来るようになってきた。ここしばらく赤津土でやっていたのだが、土をはるかに砂気の多いもぐさに変えても対話は途切れることはなかった。

対話のコツはほんのちょっとした指の使い方だったが、それを掴むまでにはいろいろな試行錯誤があった。コツは身についてから考えると、物理学的に「理」にかなっている。しかし、理でコツが修得できたわけではない。この辺がむずかしいところだ。

ベルクソンではないが、時間を逆行して反省(あるいは、反復)する時、私たちはその時点ではあり得なかった選択肢を付け加えて渾沌とした営みを整理する。それが「理」だ。ああしなくて、こうしたから、こうなった。でも、はじめて経験する時間の中でそんな「理」はまったく役に立たないのだ。

何かを掴むというのはそういうことだろう。

掴むまでは姿形が見えないのだが、掴んでしまうとくっきりと姿を捉えられるようになる。そして、そのような具象性に導かれるようにして時間が整理される。捉える前、捉えた瞬間、捉えた後、という具合に。

芝居の演出ではそういうことがたびたびある。

ある場面をどう作るか、私は映画監督とは違ってコンテは持たないで演出する。役者といっしょにああでもないこうでもないと動いてみる。一瞬の所作を決めるのに何時間、あるいは、何日と掛ることもある。決まってしまうと、ああ、あの時の誰それの動きがきっかけになってこの場面は出来上がった、と目に見えるのだが、決まるまでは役者も演出も混乱と焦燥の海で溺れそうである。

それが面白い。ベルリンフィルの往年の名指揮者フルトヴェングラーの指揮について松岡正剛氏はその力のこもったブログ「千夜千冊」の中で次のように評している。


フルトヴェングラーは、どんな古典音楽に対しても、最初は「無」か「混沌」からの出発を選び、そのうえで誰も演奏したことのなかった音楽をつくりあげることに達したのだった。
作り上げるというのはそういうことなのだ。