阿弥陀堂だよりを観る

どうも規則正しい生活ができない。気持は朝食は8時にと思っているのだが、そうなる時もあれば大幅に遅れるときもある。自由気ままというのは不自由なものだ。
阿弥陀堂だより」を観た。
一年掛けて撮り続けた信州飯山の山里の風光が美しい。田村高廣の抑制の利いた芝居が実によい。そのたたずまいは山里と呼吸を合わせている。まるで空気のような存在感である。こういうのはことばで言い表すのは簡単だが実行は至難のわざだ。田村の年齢になってはじめてなし得ることではないだろうか。
立ち上がるのも、歩くのも、坐るのも、みなふんわりとした風のようである。日課にしている良寛の「天上大風」の臨書そのままだ。亡くなった姿も布団から浮いているかのようであった。
その書は凧にしつらえられてかつての生徒(寺尾聰)の書斎にやっぱりふんわりと吊下げられていた。
監督は水が中心モチーフと語っていたが、私にはむしろカメラには写らない空気や風が作中に偏在していたように感じられた。
まさに、風性常住無処不周のこころであった。




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