「ありふれた奇跡」〜奇跡は起ったか?

ゆうべ「ありふれた奇跡」が最終回を迎えた。
残念ながら期待した奇跡は起らなかった。
山田太一お家芸とも言える大団円での両家の集いも、氏独自の劇作術である同じ台詞の繰り返しの固い殻に閉ざされて、私たちのもとに負の共同体のぬくもりを送り届けることはできなかった。
人と人のつながりを求める内なる声、謂わば、毛穴の声が、ルーティンワークのように多用される鸚鵡返しによってかき消されてしまったように感じられてならない。
氏の作品はこれまでざっと数えて55本見てきたが、同じ台詞の繰り返しが今回ほど空しく響いたのを知らない。
台詞の繰り返しで一番印象に残っているのは「ふぞいろいの林檎たち2」の最終回、磯の場面だ。これを見たとき真っ先に思い浮かんだのがシェイクスピアの『お気に召すまま』だ。


PHEBE. Good shepherd, tell this youth what 'tis to love.
SILVIUS. It is to be all made of sighs and tears;
And so am I for Phebe.
PHEBE. And I for Ganymede.
ORLANDO. And I for Rosalind.
ROSALIND. And I for no woman.
(フィービー:羊飼いさん、この若者に恋がどんなものか教えてあげて。
シルヴィアス:恋は、ため息と涙でできているもの。それが僕のフィービーへの想い。
フィービー:それが私のギャニミードへの想い。
オーランド:それが僕のロザリンドへの想い。
ロザリンド:それが僕の女嫌い。)
このように"And I"を機械的に並べる作為が、もつれにもつれた片思いの多重な関係を心地好い愛の共同体へと変換させる。(『お気に召すまま』について詳しくはこちらをどうぞ)山田太一の技法も基本的には不自然な作為を前面に出しながら、一種の舞台の弁証法とでも言うべき力によって、くるりとどんでん返しされて心地好い共同体の連帯感の声になっていた。
だが、その技法も多用されすぎると魔力を失う。
もちろんエンディングはそれなりに収められてはいた。
加奈に働くかに思えたデウス・エクス・マキナが、シングルマザーと誠(陣内孝則)へと振り向けられ、誠は恋愛関係を否定してはいたが、おそらくこれから子育てを通じて深い関係になってゆくであろう年齢差カップルと、子供を持てない新たな夫婦という皮肉な二組の四重奏で幕を閉じた。
今後、山田氏に望むのは、大御所であることを逆手にとって、若手には書けないような、度肝を抜く単発ものを書いて欲しい。



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