イメージの詩

敬愛する拓郎の歌詞に


誰かが言ってたぜ
俺は人間として自然に生きているのさ
自然に生きるって わかるなんて
なんて不自然なんだろう
(「イメージの詩」より)
というのがある。自然であろうとなかろうと、自分がどう生きているか分ること自体、とても不自然なことだ。
分るのは死んで未来を奪われたときしかない。我々人間は時の中にうごめく限り自分を分る、つまり、分ける、区分けすることなどできない。
ころころ心変わりしながら、行く先も知らずあっちへふらふら、こっちへふらふらするのが生きることなんだろうな。
末期の眼というものがある。死んだ後の世界からこの世を見返す眼だ。
一見その眼で見れば自分というものの区切りがつくように思うが、そんなこの世勝手な話はないだろう。
末期の眼の持ち合せはないが、おそらくその眼には我々が見ている人間界は映っていないのではないだろうか。
その代り私は樹と話をする。といってすべての樹と話せるわけではない。ごく稀に向うから声を掛けてくるのだ。樹のことばには人間界のすったもんだを表すものは何一つない。何千年と生きる樹にはそういう区分けはない。樹のことばは常に空だ。
樹と話せると知ったのは大学生のときだった。突然向うから話しかけてきた。上智のイグナチオ教会の裏庭の樹だ。
自分は変なのかと思っていた。大分経ってから文化人類学者である川喜田二郎が同じような体験をしていることを知った。私は変人ではなかったのだ。その川喜田氏も7月8日鬼籍に入った。合掌。



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