とんでもない深み

維摩詰が疾んだ。釈迦は弟子をお見舞いに行かせようとするのだが、みな維摩詰にやりこめられているので尻込みする。最後に文殊師利菩薩が大役を引き受ける。だが、見舞いに行ってみると維摩詰の病いは普通の病気ではないことが分る。
インドの人たちは気が長い。延々と前置きがつづくのでなかなか到着点が見えないのだが、とんでもないことが語られている。
中国禅も同じだ。
▼犬には仏性があるか、ないか?
△ある。
▼では、どうして仏がわざわざ犬畜生のからだに宿るのだ?
△知っていてあえて畜生道に堕ちているからだ。
「知而故犯」という理知を超越した議論だ。
日本にもある。妙心寺第二世宗弼(そうひつ)禅師が悟りを開いたとき謳った詩の最後を部分を読んでみよう。


仏の恩は深くてとてもお返しできない。馬の腹やろばの腹に入っている暇はない。
中国とさかさまなことを言っているように見える。ところがそうではないのだ。
維摩詰が疾んだこと、畜生道に堕ちたこと、馬の腹には入らないこと、実はすべて同じ根っこだと言われたら唖然とするしかないかも知れない。だがそれが仏教だ。
私はとりわけ宗弼(そうひつ)禅師のことばに動かされた。
馬の腹には入らない(つまり畜生道には堕ちない)と言いながら、師に「どうして入らないのか」と訊かれたとき静かに三度礼をしている。つまり、こうして現に人間という畜生同然の腹の中に入っております、と無言で認めたのだ。
そのとき師は弟子の大悟を印可する。
仏教の深みは底知れないものがある。
だが、残念なことにお寺へ行ってお布施を取るばかりで、こういう話は聞かせてもらえない。



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