とんでもない深み(つづき)

このあいだの話は議論の途中から始めたので訳が分らなかったかと思う。
別な角度から考えてみる。
道元仏道に入ってからずっと解決できない問題に悩まされていた。名のある師をたずねてまわるのだが当時の日本に正面からその問に答えられる僧侶はひとりもいなかった。
その問とは「本来本法性、天然自性身」(ほんらいほんぽっしょう、てんねんじしょうしん)という天台教学のことばから発したものだ。「人は生まれながらにしてすでに清浄で、もともと悟りを得ているという。それならどうして辛い思いをして修行する必要があるのか」というものだ。宗教的天才道元大乗仏教の根本に潜む矛盾に気付いてしまったのだ。
インドの維摩詰の疾も同様である。私たちの身は本来、空であり、清浄である。疾にかかるわけがない。それがどうして疾むのか?
中国禅には「是身非有痛自何来」(この身有にあらず、痛みいずくより来たる)という詩句が残っている。これも角度は違っているが同じ根っこに突き刺さっている。
ではこの大乗仏教の根本矛盾をどうやって解決するのか?
そこに現れるのが「知而故犯」(あえて畜生道に堕ちている)の考えだ。維摩詰の病いは衆生が疾むゆえの病いだ。衆生を救わんと疾んでいるのだ。道元も発菩提心(自分が救われる前に他人を救おうとする心)を言う。
だが、それと「本来本法性、天然自性身」の矛盾はどうかかわるのか?
究極のところは生半可な見性しかしていない私に分ろうはずはないのだが、少しだけ入口が見えるように思う。
道元は『正法眼蔵』というすばらしい書物を遺しているが、その最初の方に「現状公案の巻」がある。一部を引用する。


麻浴山寶徹(まよくざんほうてつ)禪師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住無處不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。
師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。
いはく、いかならんかこれ無處不周底の道理。
ときに、師、あふぎをつかふのみなり。
僧、禮拜す。
風と扇を切り分けるなということだ。
同じことを南泉は猫を斬って示した。ぶっそうな奴だ。
南泉の弟子、趙州はそれを聞くと履いていた沓を頭に載せた。これも趙州流の扇つかいだ。
もっとすごいのは「婆子焼庵(ばすしょうあん)」の公案だ。
修行僧に庵を与え世話をしてきた老婆がそろそろ修行も進んだ頃だと、娘に命じて抱きつかせた。僧は「枯木寒厳に倚って、三冬暖気なし」と言い放つ。それを聞いた老婆は僧を追い出し、庵を焼いた。
これだから禅は分らん、とひとは言う。
じゃあ、娘を抱いてやればよかったのか。そうではない。娘は猫だ。沓だ。扇だ。そんなところで引っ掛かっていると風は吹かない。
私だったら娘といっしょに「枯木寒厳に倚って、三冬暖気なし」と5度のハモりで合唱したろう。

観念の固いからだにとらわれるとものは見えなくなる。
バンクーバー・オリンピックと同時発表されたWe are the World 25 for HaitiをTVのニュースでやっていた。なるほど慈悲のこころも、一人ひとりの歌も立派だったが、「俺たちはひとつながりの世界だ」という容れ物が固すぎてこんな世界にからめとられるのはかなわんと思って、途中で聞くのをやめた。
観念の固い枠が悲劇を生むこともある。江戸時代の踏み絵だ。
ちなみに趙州や道元キリシタンだったら江戸時代の南泉に猫を切らせるようなまねはするまい。従容としてマリア像を踏んだろう。マリアを踏めばおのれがマリアになるからだ。いや、そればかりではない。踏もうか踏むまいか迷っているすべてのバテレンと心ならずもキリシタンを取り締まる役人すべてをマリアにするからだ。
(未完)



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