優しい時間

名作の誉れ高い・・・かどうかは知らないが評判は高かったと記憶している倉本聰の「優しい時間」全11話をようやく通して見終った。ちょっとだけ録画できなかった部分はあったがほぼ全篇見ることができた。
まず感じたのは倉本聰の最高傑作と呼ぶにはほど遠いということだった。
茶店の常連の脇役群は別として、主役の役者たち(喫茶店の店主と亡き妻)があまりいい演戯を見せていない。抑さえて演じていることは十分伝わるのだが、それが伝わってしまうと観る側はほんの少し白ける。それが抑制のパラドックスだ。
なぜ抑制するのか?見手を引き込むためである。しかし、抑制そのものが見えてしまっては失敗なのだ。
寺尾も大竹も実力のある役者である。原作に問題があったのか、脚本の不出来なのか、演出がいけなかったのか、そして、それらすべての悪循環の結果なのか・・・。
どういうわけか登場人物全員が都会人である。富良野を意識させてくれるのはひとではなく美しく撮影された風景であった。
これでは優しい時間は流れまい。
そういう不出来を象徴するのが主題歌だ。倉本の趣味かどうかは知らないがこの歌手を「風のガーデン」でも使っている。
メロディは美しく、静謐である。だが、最初にその歌声を耳にしたとき(ファンの方には申し訳ないが)、その固く、冷たく、暗いソノリテに絶句した。「優しい時間」とは何なのだろう?そう疑った。
番組紹介のHPにある


これは汚れた都会ではなく、忘れられたような清らかな田舎の一軒の喫茶店の物語である。
が皮肉に見えた。どう聴いてもあの声は都会の声でしかない。あのくぐもった声質からは「忘れられたような清らかな田舎」の物語は聞えてこない。それが毎回エンドロールに流れるのは正直つらかった。
音楽の果たす役割は大きい。だから音楽の選択はつねに危険と隣り合わせなのだ。例えば彼女が「北の国から」の主題歌を歌ったとしたら・・・・・・




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