毒舌ご容赦

もうひとつ役者に求められるものがあった。それがsprezzatura(スプレッツァトゥーラ)(トゥーを強く読む)だ。
日本語にうまく訳せないことばだ。これはルネサンスの宮廷人の条件とされた特質で、どんなに困難なこともやすやすとやってのけたり、堪え忍んだりしているかのごとくに振舞うことである。実際には大変な労苦をいとわず目的を遂げているのだが、それを一切顔に出さない禁欲的な見栄である。だからひどく欲しいものが目の前にあってもどこ吹く風の無関心を装う。
イギリスではルネサンスの華と謳われたフィリップ・シドニーが有名である。日本では三島由紀夫が行動原理としてこのsprezzaturaをつねに意識していたと思われる。
sprezzaturaには皮肉な結果が伴う。ものすごいことをやってのけているのにそんなそぶりさえ見せないため、実は大したことのない人間ではないのかと思われてしまう危険がある。だが、そんな不面目さえも甘受するのがダンディな宮廷人であった。
sprezzaturaの反対はaffectazione(アフェクタツオーネ)(オーを強く読む)で些細なことなのにすごいことをやってのけているかに振舞うことだ。
さて、高尚な話題から一気に俗に走るのだが、私は何度もいうように福△某が大嫌いである。TVのコマーシャルが始まるとチャンネルを変える。もちろん龍馬伝は見ない。
どうしてそんなに虫酸が走るのか考えてみたら福△某はまさにsprezzaturaの対のaffectazioneをあますところなく具現しているからであった。ヘタな唄、ヘタな写真、言うまでもなくヘタクソな芝居(まともに台詞がしゃべれない)をたいそうなものであるがごとくに披露する・・・彼をaffectazioneの権化と言わずに如何する。
ああ、すっきりした!
 
でも、おのれを顧みると私もaffectazioneの側にいるようだ。ひとを呪わば穴二つである。
 
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追記。首相も両極に別れる。小泉元首相はaffectazioneのひとだったが、現首相は育ちがよいためごく自然にsprezzaturaが身についている。それが庶民には理解できないので、冷淡な印象を与えているのだが、この落差はそう簡単には埋まらないものだし、それが育ちというものだろう。