愛する

器を愛する、ということばがある。愛車ということばもある。だが、待てよと思う。車を丁寧に洗い磨き上げるひとがいるが、私にはできない。大事に乗りはするが、そういう意味では愛していないのかも知れない。

では、器の場合どうだろう。

少なくとも車同様私は器を「愛しては」いないようだ。愛する対象になっていない。

シェイクスピア劇を楽しむ。この場合、車を愛するようにシェイクスピアを愛することはできない。シェイクスピアは劇場でともに生きることでしか愛せないのだ。

器もそんな気がする。もちろん、いろいろな愛し方があっていいのだが、私の実感ではお茶を美味しくいただくとき、器といっしょに生きる。それが、器をいつくしむことだと感じている。

そもそも日本人にとって「愛」というのはこそばゆいことばではないだろうか?ドラマなどで「愛しています」などと言われると、やめてよ〜、と拒否反応をしている自分がいる。ちなみに仏典に出てくる愛はすべて執着の意味で使われている。だから「愛するものと会うなかれ」(ダンマパダ)などという勘違いされやすいことばが出てくるのだ。