柿の蔕、窯焚き
さて、今回の柿の蔕はどんな姿を見せてくれるだろうか。
私がやっているのは写しだ。ゆらぎはあるものの確固とした譜面はある。私のはその演奏だ。だからいつも柿の蔕という型にしばられている。だが、そう感じるのはまだ高麗の陶人と対等になっていないからだ。伝来の型を突き抜けた柿の蔕があるような気がする。それがこの手に宿るのはいつのことだろうか。
型と自在……永遠の対立。だが、それも時が来れば、時間と永遠が対立しつつ互いを内包し合うように、単なる対立ではなくなるかも知れない。
技術というものは不思議なものだ。
型破りとかいっているうちはまだまだ未熟なのだ。