文学の悦び

ロラン・バルトの「テクストの快楽」ではないが、文学の中心はテクストの悦びであり、それ以外ではない、と密かに思う。確かに新歴史主義などの新しい方法が掘り起こした鉱石は歴史の鉱脈では燦然と輝いている。否定はしない。でも、文学は歴史の資料なのか?という疑問が湧き起こる論文が多い。もっとも、この運動の創始者とされるGreenblattの書き物は「主義」という渇いた用語でくくるにはあまりに柔軟で豊饒だ。おそらく問題は方向そのものにではなく、亜流の力量にあったのだろう。

今でも歴史(資料)に固執する文学研究家は多い。目指すのは作品論ではなく作家論だ。作家の史実を丹念に調べる文学探偵事務所(興信所)が全国でかなりの数開業されているだろう。

でも、とやはり思う。それって文学なの?それとも実証主義への対抗意識?

ひと昔前には、教授会などで、自然科学の大先生が滔々と「自然科学だけが真の学問であり、作品を読んだ感想を述べるだけの文学などは私にもできる」とご高説を垂れていたものだ。こういう風土に長く生きていれば、じゃあ反論してあげるよ、という気になって却って自分の首を絞めていった経緯も分らないではない。

肩肘張らないでいいではないか。テクストの悦びだけが拓く世界の風光がある。それを知っていることは、例えば数学の定理を知っていることと同じくらい(私見をたっぷり交えて言えば、それ以上に)素晴らしいことだ。どんなに数学が厳密でも、数式だけでは学問は成立しない。数式を説明するメタ言語が必要なのだ。それがテクストだ。実に《曖昧で、いい加減な》運動として内奥へと読み手を案内する悦びのテクストなのだ。

舞台に鳴り響くシェイクスピアの台詞にその悦びを見る。自己満足、自己陶酔かも知れないが、自分が書いた台詞が舞台で語られるときにも同様な悦びを禁じ得ない。

だが、やっかいなのはこの悦びを構造化することばがないのだ。全くないわけではないのだが、見つけにくいこと甚だしい。私はだから開き直って一生に一度だけでもテクストの悦びを語り出せればいいとさえ思っている。