病院の患者たらい回し

技術というものは生きているものを一旦殺すところから始まる。

陶芸でも「土殺し」は一大事だ。これはたまたま殺すということばが使われている例だが、私たちを感動に震えさせる音楽でも、演奏家の側からすれば感動という生きている姿で音楽を捉えている限り演奏は不可能だ。彼らは譜面という動かないものを的確な指使いで演奏という、やはり、動かしがたい音の姿に変換している。同じ音楽でも送り手と受け手でまったく相が異なるのが技術の魔術である。

いたましい出来事が妊婦に起っている。

病院側の対応を聞いていると医学的な技術面ばかりを詰め込まれ、扱うのがひとの命であるという認識が抜け落ちてしまった「優秀な」技術者の姿が浮き彫りにされる。

医学という技術の相から見る場合、ひとの命はあくまでも「人体」の延長にすぎない。それぞれのひとがただ一度きりの人生をそれぞれの生き方で送っていること(患者の実存性)は医師の視野にはない。もしあったら内蔵を開いてそこから病巣を摘出するという繰り返し可能な作業が、単なる偶然のめぐみを当てにした暴挙になってしまう。誰の内臓も基本的には同じなのだ。違うのは病気のあり方だけである。そうやってひとを一旦「殺す」ことで手術は可能になる。

だが、それだけで医学が完成するわけではない。

音楽を考えればよい。演奏家は動かないものとして音楽を指で捉える。音楽という「解剖図的人体」に自由自在に触れるのだ。だが、それだけで音楽が完成するわけではない。演奏家は最良の聴き手でもある。演奏家はたえず先輩、同輩、後輩の演奏に耳を傾け、感動を共有しつつ、その感受性をおのれの音楽にもふり向ける努力をしている。内なる聴き手を持たない演奏家は演奏機械にすぎない。

楽家の比喩で言えば、近代以降、医師は演奏機械に堕しているのではないだろうか。医学部のカリキュラムに文学が欠けている「成果」がここにある。いのちを動かない像として捉えつつ、まったく別なパラダイムから捉え直す想像力の訓練を若いうちにしなければ同じような事故が繰り返されるだろう。

だが、現代人は文学の力を根底から忘れてしまっている。私の主張は文学畑の人間のたわごととしてしか扱われないだろう。人間が人間自身を、そのいのちの営みに即して捉える手段はことばの意味形成作用、情念醸造作用を限界まで駆使した良質の文学しかない。