失敗は神の手

切立の引上げがようやく無理なくできるようになった。不思議なことに同時に自分の切立湯呑のイメージも出来てきた。今日は自分の切立湯呑を仕上げるべく一日ロクロに坐った。
というとなにやら着実に向上しているように聞えるかも知れないが、実はそうではない。自分の形が出来たのは技術不足からなのだ。切立を作ろうとして似て非なるモノが出来た。技術の未熟を嘆きながら失敗作をじっと見ていると、成功した切立湯呑よりずっと味のあるものに見えてきた。
かのアレグザンダー・ポープは


Too err is human, to forgive divine.
(あやまちは人のわざ、赦すのは神のわざ)
と言った。だが、こと技術に関する限り間違いは神業のような気がする。
人間は成功の原型を思い描いて、そこに向って努力する。その努力の途上で数々の間違いを犯す。原型はひとつだが、間違いの形は千差万別、はるかに人知を超えている。間違ったのは人間かも知れないが、プラトン流に言えば、間違いの形(イディア)は神の手によるものだ。
考えてみると芝居でも役者の失敗から実に多くの名場面が生まれた。もちろん役者は間違えようと演じるわけがない。例えば劇中歌。群読集団 冬泉響では合唱を多用する。絶対音感を持っている役者は完璧な音程で歌えるからよいのだが、全員が持っているわけではないから、稽古の最中に鳴り響くハーモニーは聴く者を悶絶させるに十分な異音がほとんどだ。ドミソの和音さえ外すのだからそこに七度、九度のジャズのハーモニーが加わればどうなるか、想像しなくても分ってしまう。しかし、時に譜面以外の絶妙な音が鳴るのだ。まさに天上の音楽である。
一日ロクロに向っているうちに切立を引上げるのが楽しくなってきた。不思議なことにかの失敗作を作ろうとすると引上げに成功してしまう。余計な力が指から抜け落ちたからだろうか?
失敗の神に感謝だ。
こういうときは体が興奮状態にあるのか、ほとんどものを食べていないのに空腹を感じない。いや、単に胃の具合が悪いだけかも知れない・・・。
おまけに今日のfunny quoteを。

Even a stopped clock is right twice a day.
(Marie von Ebner-Eschenbach)
動かない時計も一日に二度正しい時を告げる。
なかなか味わいのあることばじゃありませんか!

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