心さみしい人よ

なんだかんだとウロウロしているうちにもう師走も三分の一すぎた。そんな中、親しい後輩が上司の理不尽な扱いを、身を震わせるようにして、訴えてきた。所謂パワーハラスメントだ。
話を聞いてみると後輩に非はない。精一杯の抵抗はしてみた、という。だが、所詮上司と部下である。勝負は目に見えている。余計に悔しさが残る。
私は掛けてやることばを持たず、遠くを見ていた。思い浮かんでいたのは芭蕉の旅日記「野ざらし紀行」の富士川、捨て子の件りだ。


猿を聞人捨子に秋の風いかに
と詠んだあとに

いかにぞや、汝父ににくまれたるか、母にうとまれたるか。父は汝をにくむにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなきを泣け。
と付け加えている。最初これを読んだとき「汝が性のつたなきを泣け」の句に背筋が凍る思いをした。だが、いま後輩の悩ましい話を聞きながら浮かんできた富士川の景色には突き放すような非情は感じなかった。「野ざらしを心に風のしむ身哉」と旅に出た芭蕉にとって、やがて死んで行くであろう捨て子と旅先で野ざらしになるやも知れぬ自分をへだてるものはなかったし、子を捨てざるを得なかった父母さえも同悲の情へと呑み込んでいる。それを「これ天にして」と一見言い放つように置いた分だけ、芭蕉のこころの震えが見えるような気がする。
私には、パワハラに苦しむ後輩に、上司は汝をにくむにあらじ、うとむにあらじ、とは言えなかった。
哀しいことに世の中にはその地位にいてはいけないひとというものが往々にしてあるのだ。
たいていそういうひとは自分に自信がない。自信がないからこわばり、いばる。
まだ学生だったとき、自信とはこんな柔らかなものなのだと驚いたことがある。大学院の教授でその分野では一流であった。英語はもとより、ラテン語ギリシア語、果てはヘブライ語までものにしていた。あるときご自宅にお邪魔してお話を伺っていると、教壇に立つと時々絶対に間違えそうもない簡単な英語のスペルを忘れて、学生にこうだったっけ、と訊くハメになる、と言われた。私はびっくり仰天した。当時私はすでに教壇に立っていて、英語のスペルなど間違えようものなら自分の実力のなさがばれてしまうとびくびくしていた。
自信がないと権威主義に走り、自信があると柔軟になる。
そのとき知った教訓だ。
私は後輩にそんなことくらいしか言ってやれないな、と思った。

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