アンネ=ゾフィー・ムターを聴く

図書館からアンネ=ゾフィー・ムターベートーヴェン、ヴァイオリンソナタ全集を借りてきて聴いている。
大いに不満である。
何なんだこの訛りは。こんなに訛ったベートーヴェンは聴いたことがない。アゴーギク(演奏の緩急)華やかなりし頃の演奏ならまだしも、1998年のライブ演奏でこのありさまだ。
いや、アゴーギクを認めないというのではない。音楽は人間のものだ。人間のことばがことごとく各人特有の訛りを持っているように、どんな音楽もみな特有の訛りがあって当然だ。
だが何ごとにも節度というものがあってしかるべきではないだろうか?これではぎくしゃくしすぎて音楽の快を楽しめない。
しかし、13歳にしてカラヤンに才能を見出され天才少女の名前を恣にしたムターである。数々の賞を受けている。また、ファンも多い。
私の感性が偏っているのだろうか。
いや、どう聴いてもフレーズをいじりすぎているとしか思えない。アゴーギクの名手であったフルトヴェングラーはその演奏に彼一流の哲学があったから、仮令時代錯誤の感はあるにせよ、聴く者はその荘厳さに平伏さざるを得ない。ムターには個人の好みしか感じられない。もっときびしく言えば、人前に出すべきでない個室の振る舞いを芸術と称して私たちに押しつけているように思える。
ああ、ここまでヨーロッパの音楽は病んでいるのだな、と思った。小澤征爾がもてはやされるわけだ。彼の音楽は健康的なしなやかさに満ちている。
病んでいる人間は智に傾く。漱石ではないが智に働くと角が立つのである。そんなムターがモーツァルトに傾倒し「モーツァルトの曲は俳句のように多くの意味が込められている」などと語るのを聞くと、申し訳ないが、俳句をどこまで分っているの、とツッコミを入れたくなってしまう。
21世紀は恢復の世紀である。如何にして世紀末から脱却できるかが問われている。経済危機は起るべくして起った。国民に、まるで金持が貧乏人にものを恵むように、なにがしかの金銭を振舞ったところで解決する問題ではないのである。

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