「ありふれた奇跡」〜ありきたりの苦渋???

山田太一の「ありふれた奇跡」を6回まで見てきたが、苦戦している。といっても視聴率などの物的証拠があっての話ではない。単なる感想である。
子供が産めない女性の恋。少子化の現代に格好のテーマではある。だが、あまりにもテーマが見えすぎる。トラウマを抱える欝気味の若者、これも時流にぴったりだ。中年男性が女装クラブでこっそりと秘密の悦楽を満喫している。まさに今文化論の世界を席巻しているクィア理論、ジェンダー研究のど真ん中である。だが、このあたりのテーマは例えばシェイクスピア研究で言えばもう捨てられつつある。何故なら(稀な例外を除いて)あまりに硬直した結論しか出ていないからだ。
山田氏はなんだか無理をしている感じがする。もちろん不自然な設定は氏の特技なのだが、今回はちょっと勝手が違っているように思えてならない。
ありふれた奇跡」はフジテレビ50周年記念ドラマである。同じく記念ドラマと銘打った先行作を倉本聰が書いている。
倉本聰は創造には狂気が不可欠だと言っている。この作家にはそういう狂気が自然に寄生している。NHKと喧嘩し、東京に嫌気がさすとさっさと北海道へ引っ越してしまう。そこで「北の国から」を書く。それだけではない、若手俳優、演出家を共同生活させ、農作業と演劇の二本柱で養成する私塾を主宰する。山口百恵に惚れれば、自分の飼い犬に「山口」と名付け、エッセイで山口は俺に惚れている、とぬけぬけと書く。そういう現実と虚構のすき間を無頼漢さながらにごちゃまぜにして楽しむ才能がある。彼の狂気は皮膚感覚だ。
一方山田太一は理性で狂気を演じようとする。当然、無理がある。露骨にその無理が見える。不自然でぎこちない。それが彼の得意技であった。清潔感のある好男子、竹脇無我に人妻を口説く役を演じさせる。よかった。癌を告知された男が一切の治療を拒む。周囲があれこれ説得を試みると、ありきたりを言うな、と断固拒絶する。それも胆に堪えた。
しかし、そういうがたぴしを丁寧に包み込むのびやかなやさしさが山田作品を活かしてきた。今回の作品は骨ばかりで肉がない。理性ばかりで遊びがない。かつての山田作品にはもっとうっとりするような遊びが隠されていたように思う。
そもそもキャスティングが問題なのではないだろうか。演戯の幅が極端に狭く、誰を演じようが同じになる仲◎某が主演女優というのはどう考えても無謀ではなかろうか。こんな深い静寂を基盤にした地味な物語にトリックは効くはずもない。
ただ脇役はよい。前回、傑作な場面があった。
女装クラブで知り合った中年同士の子供たちが結婚云々の恋仲になる。これでは秘密のたのしみも危ない。さっそくサラリーマンの方(岸部一徳)が、もう一方の水道局員(風間杜夫)の家にやって来る。同居の親(井川比佐志)はセメント左官をやっている。その親のいる場で、結婚には反対だと言い始める。親はサラリーマンが左官を差別していると受取る。言い合いになる。子供の水道局員も興奮する。言い合いの最中に「シルバーナさん」と、言ってはならないサラリーマンの女装名を口走る。
この件りが実に面白い。もしかするとこのドラマで随一の名場面になるのではなかろうかと思うほどである。
また、カメラマンがよい。時折渋いフランス映画を観ているような気分にさせられるショットがある。
このようにいいところもあるのだが、率直に言って、この作品が記念ドラマではなく、脚本家が山田太一でなかったら、早期打切りになっているのではないだろうか、と危惧するほど痩せている。
骨だけ、辛さだけではドラマは成立しない。これから盛り返してくれることを切望する。




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