スズメとヒヨドリと佐渡裕のベートーヴェン第九

庭にあったブロックで新しい餌台を作ってみた。
餌を直接庭に撒いてもよいのだが、私の定位置からは視覚になって見えない。見ようとして立ち上がるとその動きだけでスズメは逃げてしまう。そこで定位置から動かずに見えるようにブロックを積み上げて餌台を高くした。
うまく行った。これまでヒヨは撮影できたのだが、スズメは警戒心が強くてなかなか撮影出来なかった。ブロック餌台だとこちらがほとんど動かずに観察できるので、逃げられずにすむ。

ヒヨとスズメが仲良く玄米をついばんでいる。
しかし、今日はどうしてこんなに寒いのだろう。
手足が冷える。

図書館で佐渡裕ベートーヴェンの第九を借りてきた。第一楽章に圧倒された。鬼気迫るものを感じた。録音もライブであるにも拘らず非常によい。よすぎて時折出る指揮者のうなり声や指揮台を踏みならす音まで拾っている。第一楽章に関してはそれも気にならなかった。手持ちのベームアバドフルトヴェングラー、ブリュッヒェンと比べても迫力、緻密さ、音の質、バランス、楽曲の解釈どれを取っても優れていると感じた。
とても奇妙な感じだった。
この第九はすべて日本人による演奏だ。所謂「本場」の演奏を東洋の音楽家が上回るなんて考えても見なかった。ただベームフルトヴェングラーなどは録音装置が現代に比べると格段に悪いのだから、CDの響きだけでああこう言うのは不公平かも知れない。それでもいいものはいいのだ。
だが、第三楽章は不満が残る。どこが、と訊かれても答えられないが何かが違うと感じていた。第一楽章で感動したため多くを期待しすぎたのかも知れない。
私の勝手な尺度では第九の最良の部分は第三楽章にある。合唱が入る第四楽章はどこかベートーヴェンの力みが入っている。もちろん当時の管弦楽曲の常識を覆した合唱付の楽章には楽聖の並々ならぬ情熱が注がれていることは知っているし、聴いていてそれを肌で感じる。それでも尚、もっともベートーヴェンらしい音楽の恍惚にあふれているのは第三楽章だと言いたい。
佐渡の指揮は、いい意味でも悪い意味でも地上性そのものだった。緩徐楽章に時折ベートーヴェンの作品に現れる天上性を感じることはできなかった。例えば弦楽四重奏曲15番、「リディア旋法による、病より癒えた者の神への聖なる感謝の歌」と題された第三楽章。
完成されたエネルギーを持つことと、超越性を持つこととは相容れないのだろうか?




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