隠喩の力

後期高齢者医療制度が問われている。マスコミや野党は制度そのものの問題点を指摘するが最も大きな敵に気づいていない。政府も気づきそうになったが、やはり見逃している。

問題はことばだ。今回の大騒動はことばの力、ことばが発する人生、あるいは、生活世界を根底から象る能力をないがしろにしたことに起因する。

「後」、「うしろ」、は「前」との対立関係によって成り立つ概念だ。前はよいもの、価値のあるもので、後はその逆だ。右、左にも同様な差別がある。ひとはうしろには立ちたくないのだ。

さらに、後期、というのは次がある場合には希望を与える。例えば、大学入試。前期があって後期があるが、どちらも入学という出発へと進む。だが、もう後がないものに対して使うと、そこには容赦のない「うば捨て山」の思想が透けて見えてしまう。

役人はお利口なバカである。一生懸命勉強して役人になったのだろうが、子供の時から塾通いで遊びごころも思いやりもない。こういう時に妙に厳密な区切りを付けたがって顰蹙を買う。あわてて「長寿〜」とやったが、「長い」には「短い」が反射的に思い起こされるから、じゃあ、長生きするな、ということか、などとやはり反発を買う。

なんで日帰り温泉の名前のように世俗の隠喩を使わなかったのか?例えば、ふれあい医療制度、ほのぼの〜、くつろぎ〜。

あとがない者には一瞬一瞬が貴重ないのちなのだ。それをまだこれから先が長い連中に「後期」などと切り捨てられてたまるか!そんな呪詛の声が聞こえる。


But now I'm an old old woman,
So I want the last word:
There is no such thing as time--
Only this very minute
And I'm in it.


Thank the Lord.
(Joyce Grenfell, 'Time')
でも、今私はとても年老いた女
だから最後のことばが欲しい
もう時間なんてものはないの・・・
あるのは今この瞬間だけ
そして、私はそのただ中で生きている


神様、ありがとう