削り、そして、作り、そして、また、削り

朝、8時代に工房出勤。私としては異例の早さだ。

昨日の茶碗の乾燥具合が気になったからだ。発泡スチロールの容器に入れて布を掛けておいたのと、今日の天気がそれほどカラッと晴天、というのでなかったのとで、思ったほど乾燥は進んでいなかった。板に戻して様子を見る。

その間に、また、宝探しに地下(あるいは、一階)へ降りる。

今日は長いすりこぎのような棒を発見した。おそらく釉をかき混ぜるのに使った棒だろう。使い込んであるのでいい感じにすり減って光沢が出ている。何かに使う当ては今のところないが、利用価値というより、職人さんたちがこの棒を使って何十年も釉をかき混ぜていたという時の記憶が最大の価値だろう。

なかなか乾かない。

ぼんやり、待っているとある考えが浮かんできた。


一句持ち来たれ。
こういう禅の究極の問に出会うとどきっとする。父母未生以前の自己本来の面目、一句持ち来たれ。そう問われたら、どう答える。

さあ、どう答えるだろう。

今の私ならきっと、なんのために?と応えるだろう。といっても訊き返しているわけではない。

問がそのまま答になる問答がある。


誰かが訊く〜なんのために生きているのか?
誰かが答える〜なんのために・・・。
だから、なんのために?というのはこれ自体が独立した文章だ。父母未生以前の自己本来の面目は何か、とは、煎じ詰めれば、人生の目的は何か、ということだろう。

生きる目的は挙げ始めればきりがないほどある。でも、禅では一句に限られる。あれも、これも、と言うわけにはいかないのだ。となると焼きものを作るため、とか、ひととの出会いを大切にするため、とか、そういう具体的現実は吹き飛んでしまう。

だから「なん(何)」というために生きるのだ。英語で言えばWhatだ。What is this?と訊かれてWhat.と答える。なんと謎に満ちたやり取りだろう!

結局人生は分らないとも言えるし、あまりに明白すぎてことばという不完全な記号では追いつかないとも言える。アウグスティヌスではないが、訊かれなければ分っているが、訊かれると分らなくなるのだ。

そうこうするうちに茶碗は削り頃になり、どんな風に削ればいい味が出るのだろう、と悩みつつ削る。

十数個しか引かなかった茶碗はすぐに削り終え、また、別な土で試験用の茶碗を作る。天気が悪いので12時少しすぎに引いた茶碗が削れたのは7時近かった。12時に引いたものが3時前には削れることもある。そうはいかないこともある。

そんな風に私は「何」を生きている。つくづくそう思う。

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